英文学者夏目漱石 年譜

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川蒸気船に想いを寄せて
漱石「こころ」100年。ということで朝日新聞にこの作品が再掲載され、毎日の楽しみになっております。
先だって、この(八十二)の掲載がなされ、先生とKとが連れ添って房総の保田から、半島を回り、小湊の誕生寺を訪ねる情景が描かれ、その後、銚子をめぐって東京に帰った。という記述です。若い友人同士、ふたりの人生の葛藤をモチーフに房総路を散策するわけですが、これらの描写は、彼の作品の「草枕」や「門」の作品にも出てまいります。
実は、この房総紀行の描写は、漱石が大学予備門(第一高等中学校)の学生の頃、仲間5人で房総散策にでかけたことを、漢文の紀行文「木屑録」にまとめておりました。
東京の霊岸島から船で房総の保田に上陸。数日、保田に滞在し海水浴を楽しむかたわら、鋸山の日本寺を訪ね、その後、小湊の誕生寺、鯛ノ浦、そして銚子から船で利根川を遡行し、東京へ戻りました。
なぜ漱石は、このような旅行を記したのか、関宏夫さんの「漱石の夏休み」によると、友人であった正岡子規の向島で書かれた「七草集」への感想、返答として漱石は漢文による房総紀行「木屑録」を記して子規に送っております。子規は、この木屑録の余白に眉批(びひ)を付して感想としました。

漱石「木屑録」明治22年 8月

総じてみれば、木屑録は三十三段まで保田周辺、鋸山、誕生寺の風景を中心に描かれたが、天津小湊から利根川上りを経て東京までの記録は、三十四段の漢詩五首だけで済まされてしまっている。
よって、全体的に竜頭蛇尾の感がある事は否めない。それまでの文章からは、風景と言う自然の美を発見し、その体験を漢文、漢詩で記し、人に伝えようとする感動が読み取れる。
また、文章の間に差し込まれた漢詩は、風景を中心とし、読者に明るい印象を与える。
さらに、対句などの規則も簡単で風景の描写や個人感情の表出に便利な古詩を二首も取り入れられ、漱石が感動した房総特有の風景が生き生きと描かれている。
しかし、文末の三十四段の漢詩には、月並の風景しか描かれていない。もちろん漢詩そのもの自体には「秋林」「荒駅」「江村」「墨江」などの詩語もあるし、秋の季節の特徴も現れているから、風景がちゃんと表現されている。
しかし、それらの風景がどこにでもある風景で、しかも、「秋千里」や「涙万行」のような漢詩特有の常套の誇張的な表現も使われている。それらの風景は漱石特有の「愁い」をあらわす雰囲気づくり、もしくは舞台装置のようなものであり、東金から銚子、利根川上り、三ツ堀に至るまでの景色は、前半のような写生的なものとは明らかに異なる。

つまり、中国の古の詩人たちのように、風景の集団的表象を外在化させることによる自己表現に戻ってしまった。その理由は2つ考えられる。
1つ、これらの漢詩における時間の推移はちょうど夏から秋の時間の縁に当たる。秋の季節や風景は東洋ではとりわけ詩人の寂しい気持ちを誘いやすい。季節の変化は漱石の脳裏に染み付いた東洋的文学感情を呼び覚ましたのである。
2つ、二十四日間にわたる長旅が終盤にさしかかり、郷愁の念に駆られ、一行五人が帰路を急ぎ、風景を楽しむ余裕はなくなったかもしれない。よって、時間的に後半の帰路は執筆に近いにも関わらず、風景がほとんど記されていない。風景が急速に色あせて、かつ風景を見る視線もぼやけて、見つめる対象も抽象的になっている。それに伴い、詩も個性を失い、パターン化してしまったのである。

まとめて
・漱石にとって貴重な異境体験であった。日常を相対化し、日常性の差異化、逸脱を
経験し、新しい視点で風景を発見することができた。

・従来の漢詩のかたを破り、写実的風景描写から脱却し、写生的な試みの第一歩を歩
みだした。文章家の原体験を求め、心象風景だった南画を自然の中に見つけ、模写す
ることにより、対象への細かい観察力を身に着けた。

・房総の風土が漱石に大きな感銘を与え、「木屑録」の成立につながったのみなら
ず、旅の体験が漱石作品に様々な形で生かされた。房総紀行は漱石の自然観の形成お
よび文学の形成に少なからぬ意味を持ったに違いない。

漱石らは、利根川の銚子〜三ツ堀間を船で遡行し、野田を経由して東京へ帰った。
これら一文にまとめられた事実を、文章表現された小説とは知りつつも、実態表現に迫りたく、事実たらしめた状況を調べてみる事とした。


よろしくお願いします。
私は、漱石の「木屑録」三十四段銚子より舟を賃いて刀川を遡り、未明、三ツ堀に、、、、。という記述から当時の水運状況を調べ、銚子汽船が運行する川蒸気船に、もしかしたら漱石らが乗船しているのか気になり調べています。当ブログにもその調査経過を掲載しています。
よろしければ、もし関連情報をお持ちでしたらご教示いただけると幸いです。

御回答有難うございました。

荒正人著『増補改訂 漱石研究年表」集英社1984年のP80~81で、確かに記載がありました。

御手間をお掛けしました。

私も詳細はわかりませんが、いろいろな参考資料を読む中で年表を作成したものです。
確かこの年表を作成する際、集英社版、漱石研究年表 荒 正人 著のP52を参考にしました。

お答えになりませんがよろしくお願いします。

追伸:メールで返答しようと思いましたがアドレスにアクセスできませんでしたのでご了承ください。

御照会お願いします。
夏目漱石について調べています。
漱石年譜
http://www.s-kawano.net/s-kawano/漱石年譜.pdf

この年表の16歳の項に
「7月ごろ東京大学予備門受験準備のため、秋、神田駿河台鈴木町一三番地、(現:千代田区神田駿河台2丁目)⑫成立学舎に入学、英語の勉強を始める。」

と記載されていますが、成立学舎の住所が
「神田駿河台鈴木町一三番地」
と判明した資料はございますか。

随想「落第」に漱石自身が成立学舎の場所について
「曽我祐準さん(鈴木町14番地)のとなりと」記していて、成立学舎は「鈴木町13番地」あるいは「鈴木町15番地」とわかっていましたが、確定できませんでした。

以上、宜しくお願いします。、

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このページは、blogskawano.netが2013年10月10日 15:30に書いたブログ記事です。

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