2014年12月アーカイブ


銚子汽船と宮城家

 銚子では、利根川の高田河岸で、宮城家が
1851 年(嘉永 4 年)以来、廻船業を営んでいた。
扱っている商品は、干鰯・〆粕・魚油などの水産加工品が多く、それについて米・大豆・菜種などの農産品、赤穂塩。空き樽などの醤油生産の材料など。
宮城家も政府の陸運政策の波を受け、
 1875 年(明治 8 年)3 月陸運元会社に入社した。
77 年(明治10年)、宮城家の所有船は、450俵積の高瀬舟のほか、それぞれ300俵積・120俵積・ 100俵積・7.80俵積の小船の計5艘であった。
宮城家は、独立した廻船業者である とともに陸運元会社の社員でもあり、同社の変遷とともに、内国通運会社から日本通運株式会社にいたるまで社員であり、株主であった。また、同時に銚子汽船会社にも所属して いた。
銚子汽船会社は、
1881 年(明治 14 年)5 月、醤油製造業者の浜口儀兵衛が数千円の資金を拠出して創立に着 手し、
同年 12 月に資本金 1 万 1250 円で発足した。社長に岡本吉兵衛を選任して、
翌 明治15年 1 月に開業となり、航路は銚子~木下間で、銚子丸一隻で隔日の航行であった。当時の航路の状況は、木下以東の下利根川に銚港丸・信義丸・銚浦丸などが航行し、霞ヶ浦 と北浦には通運丸・豊通丸・高浜丸・開運丸・大吉丸など数十隻が航行し、それぞれの船 主が異なり、競争していた。
同年 3 月には、第十一号通運丸と小型汽船の大吉丸が先を争う競争をし、猿山村(下総町) 地先と神崎本宿地先の間の利根川で衝突し、大吉丸が沈没する事故を引き起こした。 
銚子汽船会社では、銚子~木下間の隔日の運行では不便であったので、
1883 年(明治 16 年)8 月に第二銚子丸を就航させ、以後、二隻の汽船で毎日航行となった。 このとき、印旛郡竹袋村(印西市)の船問屋で二隻の銚港丸の船主であった吉岡七郎は、 競争を回避して、営業の管理を銚子汽船会社に委託する連合同盟を結成した。
1884 年(明治 17 年)8 月、この同盟汽船と内国通運汽船会社は協定を結んだ。その内容は、 航路を東葛飾郡三ツ堀(野田市)に延長し下利根川は同盟汽船が、野田以南の江戸川は通運丸が航行し、
こうして銚子~東京間の連絡輸送の便を開こうというものであった。三ツ 堀と野田の間は、陸上輸送であった。
しかし、この 8 月に東京の航運会社の汽船いろは丸 が下利根川にあらわれて、同盟汽船と競争を始めた。両社は進路の前後を争い、三ツ堀~ 野田間の陸上では、人力車の料金を無料にするなど、競争は激烈となった。
翌明治18年 11 月、いろは丸は競争に敗れて撤退した。
また、同年 12 月には銚港丸船主の吉岡 七郎との同盟汽船の期限が切れ、銚子汽船と吉岡との業務の提携が解約された。 銚子汽船と内国通運は、銚子~東京間の協定ばかりでなく、銚子~高浜(市川)間、佐原 ~鉾田(茨城県鹿島郡鉾田町)間の各航路を同盟航路とし、相互に無駄な競争を避けた。 

明治23年 利根運河完成
明治26年  銚子汽船は利根運河内に汽船を入れ、江戸川を走る通運丸への直接貨客つぎかえを始め、
      乗船数
          明治22年    23,739人
          明治26年    39,514人
          明治29年    58,538人

明治28年1月 銚子〜東京 直行
        
          明治29年    土浦〜田端
          明治30年    総武鉄道は、本所〜銚子に延長
          明治34年    成田〜木下

航路工事
     航路維持の低水工事から洪水防御の高水工事へ



1902 年(明治 35 年)5 月、銚子汽船は内国通運とともに吉岡孝太郎所有の 4 隻の銚港丸 と営業の全部を買収して分割し、銚子汽船はそのうち2隻を得て、第五銚子丸、第六銚子 丸と改名した。
08年8月には、内国通運から汽船2隻を買収した。

都営荒川線

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