2016年3月アーカイブ

公会計改革とリテラシー
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朗読夢十夜

 

1、 現在でこそ、百歳を超える長寿者も数多く存在するが、百年前には百歳というのは考えられない生の長さであった。百年という時間の単位と、それを経て漸く花開く百合の花。百合は『それから』では、重要なモチーフであったし、日の「赤」のイメージも同様である。「のっと」落ちたり、「のそりと」上る日に、真珠貝や月の光や星の破片のきらきらしたイメージが対峙している。

2、 参禅に関する描写としては、『門』の場合と対照的である。感情的か、理性的か。挑戦的か、自虐的か。公案も、「趙州無字」と「父母未生以前本来の面目」との違いがある。しかし、いずれの場合も、どうにもならずにもがいている自己の外側に時間が淡々と流れ、何の変哲もない空間が広がる。そこに漱石の一つの見解が示されているのではなかろうか。

3、 第一夜に続き、「百年」が登場する。明治の年号とともに成長してきた漱石の一生を、江戸時代へ向けて反転させると、ほぼ百年になる。そして、自らの子供が「自分の過去、現在、未来を悉く照して」いるという状況の中に、照らされる自分自身が宙ぶらりんの状態として位置づけられてくるのである。

4、 『夢十夜』をフロイト的に読み解くこともできるのであろうが、プロットの展開を文章のみを手がかりに追っていくと、この第四夜はかなりリニアな部分が浮き上がってくるように思われる。訳のわからなさを残したまま、まっすぐに進み、パタンと途切れてしまうのは、ある意味で夢本来の姿なのかもしれない。創作メモを手がかりにすれば、そこに禅味も盛り込まれているように思われる。

5、 「夢」であるから、いきおい夜の描写が多くなる。そして、夜を描く漱石の文章には独特の雰囲気が漂ってくる。ここでも篝火が印象的に配置され、風に靡いたり、焔が大将になだれかかったりする。そして、漆黒の夜の中に「女の髪は吹流しのように闇の中に尾を曳いた」のである。天探女のところでぷつりと話が途切れることで、さらに謎めいた余韻が残る。

6、 とんでもない時代の異なりから、いかにも荒唐無稽の作り話のような印象を与えるものの、じっくりと読むと芸術の真のあり方の深い洞察が垣間見られることがわかる。観客には目もくれず、作品とのみ向き合い、「大自在の妙境に達している」芸術家。そして、「眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出す」ことができる芸術家。このような芸術家こそ時空を超越できるのである。

7、 『夢十夜』の中で、いかにも漱石の実体験がベースになっているような話である。そして、飛び込むところがまさに夢の世界である。浮遊する夢はありがちなものであるが、ここは足が下になる状態である。「何処へ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかった」という述懐も、時代状況と重ね合わせると、何やら暗示的である。

8、 『夢十夜』の中では、妙に明るい風景を描いたものが第八夜である。とはいうものの、鏡の中に見える風景は少しばかり謎めいており、白昼夢の様相を示している。永久機関のように札を数え続ける「色の浅黒い眉毛の濃い大柄な女」がふっとかき消され、表へ出ると、今度は、赤や様々な形をした金魚と、ちっとも動かない金魚売が目に入ってくるのである。

9、 あるいは実際に聞いたかもしれない話を、「夢の中で母から聞いた。」とすることで、それまでの非常にリアルな描写がふっと中空に浮くような仕立てになる。そして、父がどこかへ行ったのは「月の出ていない夜中」で、母が御百度を踏むのも梟が鳴く夜のことである。三つになる子供にとっては、どういうわけか時間と空間とが混乱している。

10、         突拍子もない豚の群の登場に驚きを禁じ得ないが、そこには新約聖書のイエスの奇跡の寓意が込められているとも言われる。鮮やかな色の果物とそれに呼応するような女性、そこに突然現れる豚の群、そして七日間という時間。何やら寓意に彩られているようではあるが、物語もいきなり終結を迎える。

 



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