利根川東遷

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利根川古代.jpg
利根川中世.jpg利根川東遷1.jpg
中世末~近世初期(第Ⅰ期)の利根川
①天正4年(1576)・権現堂堤築堤
②天正18年(1590)・小名木川・新川の開削
③文禄3年」(1594)・会の川締切り

利根川東遷2.jpg近世(第Ⅱ期)の利根川
①元和7年(1621)・新川通開削
②元和7年(1621)・赤堀川初開削(通水せず)
③寛永6年(1629)・鬼怒川付替え
④寛永6年(1629)・元荒川締切り・荒川付替え
⑤寛永年間(1624~1643)浅間川の高柳地点締切り

利根川東遷3.jpg近世(第Ⅲ期)の利根川
①寛永17年(1640)・江戸川の開削
②寛永年代(1620~1643)・庄内古川締切り(推定)

利根川東遷4.jpg近世(第Ⅳ期)の利根川
①承応3年(1654)・赤堀川増掘削(通水)

東遷事業の一応の完成、ただし流水は幅10間ほど、本流すべての水を流せたわけではない。
その後も下流域では、寛文6年(1666)新利根川の開削や延宝4年(1676)将監川の開削、改修・拡幅事業は継続的に進められる。それと同時に舟運路の整備や神殿の開発は順調に進展し、江戸繁栄の礎となっていった。







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利根川東遷 (関宿城博物館)

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利根川東流と境河岸
利根川と周辺河川が整備されて、現在見るような河川の原型が形作られたのは江戸時代の初期であるが、それは境河岸にどのような影響をもたらしたのか。
境河岸成立の地理的契機であった逆川の、その整備は江戸川の開削とともに境河岸繁栄の物理的な条件となり、より早く江戸と境を結ぶことになった。
他方、いわゆる「利根川東遷」は、境河岸の繁栄の条件であったかのように言われてきたが、赤堀川の開削は境河岸の成立とは無関係であった。
境河岸にとって利根川東遷が持つ意味は、赤堀川によって上利根川が中利根川(常陸川)へ出る大回しルート開設の物理的条件を作り出すことになった点である。
境河岸を通らずに江戸川に入る大回しルートの開設は、江戸時代後半からの境河岸衰退の遠因となるのである。

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このページは、blogskawano.netが2016年5月 5日 10:25に書いたブログ記事です。

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