漱石 それから

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朝日新聞掲載 それから 梗概



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「それから」読書メモ

 

 明治42年(1909年)6月から朝日新聞に連載された。定職を持たず、30歳になっても父親の援助を受けて生活している青年・長井代助。一軒家を構え、書生と下女を雇って優雅に暮らす「高等遊民」の彼の前に、かつて愛情を抱きながら、義侠心から友人・平岡と結婚させた三千代が現れる。代助は「自然の児」として生きることを決め、人妻である三千代を平岡から奪う決意をする。

 この作品では、代助をはじめとする登場人物が、山の手から下町へとあちこちを行き来するが印象に残る。漱石は彼らの動きを丁寧に描写し、明治末年の東京の姿を描きだしている。父親から勘当され、すべてを失った代助が東京の街へと飛び出していくシーンは鮮烈だ。

 

 この作品は、明治42年6月から10月まで「朝日新聞」に発表された。漱石は予備門時代の旧友である当時満鉄総裁の中村是公から突然満州旅行を誘われて、急いで書き上げたのである。

 この作品を書くにあたって、綿密な見取り図、作品の構成全体がノートに記されている。骨格がすでにできていたのである。あとは、いかにその骨組に上手く肉付けするかが問題であった。しかし、前述のような事情から、その肉付けが足りずに、裸の骨格、すなわち、観念が露呈した状態になってしまったままであるという批評もある。

 この作品では、明治末期という時代もあって、主人公の「代助」の中にインテリジェンチャの模型を創造しようとしたが、ぎこちない人物像になってしまったことは否めない。また、ここでの男女の新しい愛と心理と運命、結婚のあり方を追求した。それは、「門」に発展的に引き継がれている。「三四郎」「それから」「門」は、一つの問題意識を追求する青春小説三部作と呼ばれるゆえんである。

 

 明治のジェネレーション

  北原白秋 「邪宗門」 空に真っ赤な  の色、、、  虚脱感

  国に役立つ人間としてゴールに立つ

 

 作品の背景

  漱石、世紀末ロンドン留学から帰国、倦怠感、虚脱感 虚無感のなか

 

作品の人物関係

 主人公、代助、30歳、親父、兄夫婦のすねかじり、高等遊民

 平岡の細君三千代からの借金の無心に(500円)、――>代助は、嫂に相談、200円を調達――>三千代に金を届ける

 

目を覚ました代助の枕元に八重の椿が一輪落ちていた。

やはり、春に始まり、春の終わりにおわる

象徴する椿の花と鈴蘭(谷間のゆり、青春、幸福、死)

三千代は、ユリを持参し、大助を訪ねる(ユリの花言葉、欲望)

コップの水を飲む儀式

代助、嫂の進める縁談を拒絶――>夕映え

停車場、ユリを買い求め、三千代とやり直す覚悟

三千代を向かえ、告白

三千代「あんまりだわ、」涙。「why?」、「残酷だわ」、

そして、「もう少し早く言ってくれれば」

代助、覚悟、罪を知る

 

「焦る、焦る」と歩きながら、電車に飛び乗り、今度は「ああ動く、世の中が動く」

郵便ポスト、真っ赤な風船――赤い色が片っ端から代助の頭の中に飛び込み、ついに世界中が真っ赤に染まった。代助は、自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗っていこうと決心した。

 

 男女の新しい愛と心理と運命、結婚のあり方を追求した。それは、次の「門」に発展的に引き継がれ、「三四郎」「それから」「門」は、ひとつの問題意識を追及する青春小説三部作と呼ばれる。

 

あらすじ

長井代助は30になって無職、家族の金で裕福に暮らしている。友人平岡常次郎の妻三千代は共通の友人の妹で、平岡に彼女を取り持ったのは代助だ。銀行を辞めた平岡が妻と共に関西から戻ってきた。ある日、三千代が1人で金策に訪れる。夫婦には平岡の道楽、高利の借金に三千代の心臓病、子どもの死という事情があった。三千代を満足させてやりたくて、代助は兄嫁に頼み、二百円を融通する。心待ちにしていた三千代が大きな百合(ゆり)の花を提げてやってきた――。

 

長井代助は親の金で不自由なく暮らす「高等遊民」。旧友の平岡と妻三千代が3年ぶりに関西から帰京した。彼女は学友の妹で、2人を取り持ったのは代助だ。借金、平岡の道楽などで変容する夫婦関係......再会した代助と三千代に、元々抱いていた互いへの思いがよみがえってくる。一方代助には資産家の娘との縁談が進んでいた――。

 

 

それから

 大学での学歴をもちながら職に就かず、親がかりの生活をしている三十歳の長井代助は、食うための労働を軽蔑し、日本の文明開化を下劣なものとして批判する。だが、そんな代助には旧友平岡常次郎の妻である三千代への忘れられない想いがあった。平岡が関西の銀行を辞め、職探しのために上京してきたことにより、代助と三千代は再び出会うことになる。漱石の三角関係の恋愛劇が、濃密かつ明確な形を表した前期三部作の中心の作品。

 

 

数年前に帝大を卒業したが、食うための職業を軽蔑し定職に就かず、実業界で羽振りのよい父の保護を受けながら優雅な遊民暮らしをしている長井代助。そんな彼が旧友・平岡常次郎と再会することで物語は動き出す。関西の銀行で詰め腹を切らされた平岡の窮状を妻の三千代から聞かされた代助は、借金返済の金策に奔走する中で、かつて自分が抱いていた三千代への愛を断ち切れていないことに気付いて、平岡から彼女を奪うことを決意する。

許されない不義理に、父や兄から絶縁を言い渡されるも、代助はあらゆる忠告や軽蔑を無視して、世間の荒波に飲まれていく。

 

 

 

「それから」 七より、十より、十四より

「それから」は漱石が書いた最もロマンチックな恋愛小説と言ってよいだろうが、代助の心を奪う女、三千代の姿には少々怪しいものがありやしないか。

「丸裸の骨ばかりが残ったところに、夕方になると烏がたくさん集まって泣いていた。」三千代の棲む家からどうしてこんな「墓場」のごとき場所が見えねばならぬのか。三千代という女には、摩的なものの匂いが、強烈な百合の香りとともに漂う。

 

 

明治期の結婚は1898(明治31)年の明治民法を機に大きく変化した。

 湯沢雍彦「明治の結婚 明治の離婚」に詳しい。以前は、婚姻は慣習に従い証人立ち会いのもと儀式を行うことで成立する考えだったが、法制定によって戸籍吏へ書類を届けるだけで成立すると簡略化された。

 近代化が進み、仕事を求めて人々の移動が激しくなると、結婚をあっせんする者の役割が大きくなった。結婚相談所も出来始め、86(明治19)年の大阪朝日新聞には「品行方正にして和洋の学を修めたる婦人に限り至急応答者を望む」などと求婚広告も載っている。

 漱石は95(明治28)年、妻鏡子と見合いの席で出会った。歯並びの悪さを隠さずにいる鏡子の姿が気に入ったという。鏡子が事前に漱石の写真を見た印象は、上品で穏やかな顔立ちで「ほかののをどっさりみてきた目には、ことのほか好もしく思われました」(夏目鏡子「漱石の思い出」)。

 2人は翌年結婚。親友正岡子規は「蓁々(しんしん)たる桃の若葉や君娶(めと)る」という句を贈って祝福した

 

変わる和装の素材

 明治期の普段着は和装が基本。洋装は主に官僚や軍人、事業に成功した実業家らごく一部だった。

 ただ素材は、木綿や高級な絹から変化がみられる。平岡が着たネルは肌触りがよく明治後半に普及。銘仙という、廉価な絹糸(玉糸)の着物も、中流層にまで広まる。染織業史に詳しい埼玉大の田村均教授によると、欧米向け生糸の生産増に伴い、玉糸も大量に発生したからという。

 化学染料の登場などで、多彩な色づかいの模様織物にも人気がでた

 

恐るべき腸チフス

 三千代の兄と母の命を奪ったチフス(第36回)。腸・発疹チフスは明治13(1880)年、伝染病予防規則で届け出が義務づけられた。秦郁彦「病気の日本近代史」によれば1905年、腸チフスは患者2万2853人に対し死亡者は6280人だった(同年赤痢は患者3万7981人に対し3762人死亡)。「恐るべき腸窒扶斯(チフス)」(06年)などしばしば新聞でも話題に。代助の家には専用水道があるが、不衛生な水が病因の一つとして上下水道の整備が急務とされた

 

代助が新聞で目にした「日糖事件」(第41回)。 担当検事の小原直「小原直回顧録」に詳しい。砂糖の輸入関税を一部返却して製糖業者を保護する法律の失効が迫っていた。大日本製糖取締役らは期限延長を求めて、議員計20人に多額の金を贈与した。

 漱石も日記に「重役拘引、代議士拘引。天下に拘引になる資格のないものは人間になる資格のない様なものぢやないかしらん」と記している

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このページは、blogskawano.netが2017年5月 3日 07:13に書いたブログ記事です。

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