漱石 門

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漱石全集6巻 門




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「門」読書メモ


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明治43年3月から6月まで、「朝日新聞」に連載され、「三四郎」「それから」と三部作をなす作品である。

前作の「それから」は、主人公代助が友人平岡の妻三千代と恋愛するという設定であるが、自分の恋人を友人に譲るという最初の自己欺瞞が間違いの根源にあるということに気付くという内容。結婚と恋愛の対決を追求した作品である。「門」は「それから」の主題をさらに推し進めている。

主人公宗助は友人の妻御米を奪い、御米は夫に背いて宗助に走った。世間から孤立した愛の力、自然の愛に従うという個人主義的な生き方が社会の同義的な批判に耐えることができずに苦悩するという展開である。宗助は、山門に入り、老僧を訪ね、そこで十日間を不安のうちにすごしたのち御米のもとに戻る。

漱石は二七年の末に鎌倉円覚寺の釈宗演に参禅している。このときの心境が宗助に託されているともいわれる。漱石の苦悩と宗助のそれとは質的に異なるとはいえ、参禅の体験を利用したものととどめる解釈すべきであろう。

 

 


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長谷川 勉  様


  新緑の美しい季節となってまいりました。
  リハビリテーションの養生、いかがでしょうか。
そして、読書三昧の日々、いかがお過ごしでしょうか。

先日の5月13日(土)、午後。東洋大学でJAGA東日本部会(公会計改革研究)の研究会合がありました。
久しぶりに東京へ出かけるのなら、午前中、長谷川さんのところに様子見しようかと考えておりました。
そういえば、この1~2年、同会合が開かれる際、お邪魔しておりましたね。
今回は、雨模様の所為もあって、お訪ねできませんでした。
また広川君と相談して、歓談の機会をつくりたいと思います。

今回メールしましたのは、5年前の大病の際、入院中の暇つぶしで始めた漱石作品の読破活動について、ですが、
一応、当初の目的は達成しましたが、その間に抱いた興味・関心の調査、取材や、漱石作品の新聞再掲載、漱石没100年、生誕150年等、昨年から今年にかけてのイベント絡みや、岩波漱石全集の再々刊行など、結構充実した暇つぶしに事欠きませんでした。
いま、先の定本「漱石全集」が昨年12月9日から刊行され、毎月1冊のペースで読んでおります。
前の漱石全集(全17巻)と比べ、大変読みやすくなっております。せっかくの機会としてまた再挑戦しております。
もうしばらく、全巻28巻ですので、もうしばらく暇つぶしを楽しもうと思っております。
再挑戦しようと思ったのは、先にも書いた朝日新聞への作品再掲載で、毎朝配達される新聞から「作品」の切り取り、スクラップすることが日課になり、作品を読みながら、記事の梗概をまとめたり、関連情報を調べたり、時には何日も切り取りだけでさぼったり、と続けるのが大変でした。
少し、息切れがしてきましたが、「こころ」「三四郎」「それから」「門」そして「吾輩は猫である」のスクラップブックができあがりました。
そして、いま「漱石全集」は6巻目、「それから」と「門」です。
「門」は、なかなかいい作品ですね。

「門」は不思議な作品である。社会から孤立し、うらぶれてひっそりと生きる一組の夫婦を描いたこの物語は、しかしどこか静かな幸福感を漂わせている。  
孤立した夫婦の生活に幸福感とは奇妙な取り合わせだが、「門」をよく読めば、いかに二人が社会から孤立していても、二人がお互いに孤立しているわけではないことがわかる。
もちろん、宗助と御米は無二の信頼で分け隔てなくむすびついているわけではない。お互いに秘密もある。沈黙もある。語らぬ言葉もある。けれどもしばしば漱石は記している。
「夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに耐えかねて、抱き合って暖をとるような具合に、御互同志を頼りとして暮らしていた」
「歩いている先の方には、花やかな色彩を認める事ができないものとあきらめて、ただ二人手を携えて行く気になった」
 寂しい生活を二人ひっそりと、けれども確かに手を取り合って歩んでいく夫婦を描きながら、漱石は絶妙のバランスを失わない。ときにユーモアを、時に諧謔を程よく織り交ぜ、孤独の背後に絆を描き、借銭に苦しむ二人を語りながら、夫婦お互いの気遣いに触れて、大いに読者を楽しませてくれる。
多様な漱石らしさが見事に結実したという意味で、いかにも漱石らしい作品と言えるのではないだろうか。

現代は誰でも孤独を抱えて生きている時代である。
多様化という名のもとに価値観が寸断され、善悪の基準も定まらず、社会という大きな枠組みはすでに形骸化して、多くの人たちが選択の余地もなく孤立や孤独とともに生きている。
その意味では、現代人のそれぞれが宗助であり、御米であると見えてくる。
この孤独という、時代とともに存在感を増してくる重い主題を描きながら、しかし「門」には希望がある。

坂井の宅を訪ねても、禅寺の門を叩いても心の休まらない宗助の姿に、我々は絶望を感じるわけではない。ため息をつきながら御米のもとに還っていく背中を、苦笑とともに見送るだけである。
作中を満たすこの不思議な安堵感こそ、ある意味で余裕派漱石の品格と言って言えないこともないであろう。少なくともあまり切れ味の良い哲理の刃をふりかざして返り血を浴びるより、「ただ二人手を携えて」行こうという漱石の態度に、深い共感を覚えるのである。

全集月報に寄稿された夏川草助さんも一番好きな作品だと述べております。

そんなこんで、「門」のノートを送ります。
作品の読み方は様々でしょうが、史学科に所属したためか、まずは資料の的確な解題、解読です。
これが、自身の読み方なんでしょうね。

まあ、専門家ではないので、いい加減なコメントですが、それなりの根拠、データは調べ、持ちあわせております。
多分、また読みなおせば、新たな発見、コメントが出てくるかもしれません。それはその時、ということで。


    河野 清一
    BYB01670@nifty.com


PS;何とか、返信いただけるとありがたく思います。
   
   私は今、猫と一緒に暮らしております。3年前に迷い込んだ猫です。
   漱石の所為でしょうか、我が家の猫もマイペース、胡散くさい哲人のようです。
   話はあまりできませんが、食事の時は結構、コミュニケイトしてます。寒かった冬は、寝所の取り合いでした。
   このごろは、毎朝、5時に、散歩に行けと言わんばかりに「にゃあ、にゃあ」起こしに来ます。そこで、早朝の餌やりをして
   近くの公園に散歩にでかけます。30分ぐらいのウオーキングです。それから、新聞に目を通し、普段の暮らしが始まります。
   

作中を満たすこの不思議な安堵感こそ、ある意味で余裕派漱石の品格と言っ て言えないこともないであろう。少なくともあまり切れ味の良い哲理の刃をふ りかざして返り血を浴びるより、「ただ二人手を携えて」行こうという漱石の態 度に、深い共感を覚えるのである。

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このページは、blogskawano.netが2017年5月 3日 07:33に書いたブログ記事です。

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