「関さんの森」古文書の会を訪ねる

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 2018-5-20  渡辺尚志さんの著書「殿様が三人いた村」の松戸幸谷の「関さんの森」(同エコミュウジアム)を訪ねました。
 昨年12月訪ねた時は落葉した木々の森でしたが、今回は、新緑の森、屋敷の庭は色とりどりの草花が咲き誇る景色でした。
 ご案内頂いたのは、ミュージアム代表の木下さん(古文書の会)で、渡辺さんのまとめられた著書で活用された「古文書」の資料を会員の方々と整理し、目録を調製されたそうです。それと資料整理の途中での古文書の解題作業や解読されたメンバーの解説原稿、解説パネル板等をご提示、じっくり拝見させていただきました。
 本日は定例開館日、育森会員の方々が参集し、屋敷林や蔵の清掃や見学者の案内など、大変忙しい中、お丁寧な解説に加え、「古文書の会」の報告会関連資料までも見せて頂きました。
 また、関家、育森会、生態系保護協会、環境財団、古文書の会との関係や活動経過などについてお話を伺うことができました。山田さんからもエコミュージアムの「ブログづくり」の話など、いろいろとありがとうございました。

 前回訪問記


古文書調査経過と解説書籍「殿様が三人いた村」
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古文書の様式・書式・印章・御用留

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領主曲淵家と名主関武左衛門
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幸谷村人口と年貢
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幸谷村の年貢

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関家文書の調査

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関家古文書

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松戸の関家 「殿様が三人いた村」出版 崙書房

内容説明

下総国葛飾郡幸谷村の関家に伝わる三〇〇〇点の古文書を紐解き、村人たちの江戸時代の姿を描く、かけがえのない地域の歴史。
目次

第1章 江戸時代の村と百姓
第2章 幸谷村には殿様が三人いた
第3章 村掟の世界
第4章 村の仕組みと村人の暮らし
第5章 お寺と神社
第6章 水をめぐる共同と対立
第7章 災害とのたたかい
第8章 百姓と領主
第9章 村を越えた結びつき
第10章 現代とは違う江戸時代の土地所有
著者紹介

渡辺尚志[ワタナベタカシ] 
1957年、東京都生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。一橋大学大学院社会学研究科教授。日本近世史・村落史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

江戸中期から明治初めまでの約100年間、旧幸谷(こうや)村(現松戸市)の名主を務めた関家の古文書約3千点をもとにした「殿様が三人いた村」が出版された。農民が江戸城下の領主や近隣の農家と年貢の交渉をしながら、粘り強く生きた姿が記されている。




 関家は、下総国(しもうさのくに)葛飾郡幸谷村で18世紀後半~19世紀後半に4代にわたって武左衛門(ぶざえもん)を名乗り、名主を務めた。本はこの時期の文書を中心に、渡辺尚志(たかし)・一橋大学大学院教授(60)=日本近世村落史=がまとめた。
 「江戸時代の村と百姓」から「現代とは違う江戸時代の土地所有」まで10章で構成。渡辺教授は「当時の平均的な村だが、領主にも物おじせず、ダイナミックに暮らしていた農民たちの様子が貴重な古文書を通して伝わる」と話す。
 第2章「幸谷村には殿様が三人いた」では石高が約400石で、江戸の旗本の領主3人が3地区に分かれて領地としていたことを紹介。約20戸が暮らす「台組」地区を曲淵家が知行所(領地)として治め、実務は関家など村役人が行っていた。年貢の交渉やもめ事の仲裁など、大幅な自治が認められていたという。
 第3章「村掟(おきて)の世界」では1767(明和4)年、百姓ら43人が曲淵家の知行所の名主代理に「覚(おぼえ)」と題して差し出した自主的ルールを記載した。「遊び正月」として毎月1日と15日を休みとし、種まきや田植えの時期にも3日間ずつ農作業を休むよう定め、1年の生活にメリハリをつけていたことがうかがえる。
 第8章「百姓と領主」は年貢の納め方を取り上げた。1845(弘化2)年、曲淵家の知行所の年貢米は総額100俵(40石)で全石高の21・4%。徴収が意外に少なかったことがわかる。江戸川が近くを流れ、水害時は関家などが農民を代表し、曲淵家に減免措置を文書で願い出ていた。
 一方、領主も財政難を補うため臨時の上納金を農民にたびたび賦課した。1838(天保9)年、曲淵家は長屋の普請費用として武左衛門に20両、村民に10両を負担させ、武左衛門はその功績で苗字(みょうじ)帯刀を許された。渡辺教授は「連年の災害にもかかわらず、百姓たちには上納金を負担し得るだけの経済力が備わっていた」と分析している。
 7代目を継ぐ関美智子さん(81)は約2ヘクタールの広大な森林と屋敷地を後世に残そうと、一部を公益財団法人に寄付し、約7千平方メートルの屋敷地に姉妹で暮らす。屋敷内の三つの蔵にあった古文書を、一帯の保全を支援する市民団体「関さんの森エコミュージアム」(木下紀喜代表)の会員たちが約5年間かけて整理した。

御年貢勘定目録について解説、メモ




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関家に残る「幸谷村御年貢勘定目録」解説メモ

1、はじめに
 関家文書の中には、明和5年(1768年)から文久3年(1863年)まで」、75通の「御年貢勘定目録」が発見されています。
 年貢勘定目録は、一年に一度作られるもので、72年分の年貢の実態が分かる史料です。
 そのうち、寛政10年(1798年)~文久3年(1868年)までの47通(うち、断片3通)、
勘定目録として完結しているのは、44年分でした。
 この中から、文政5年(1822年)の勘定目録を取り上げ、年貢の実際と手続きを調べてみました。

2、「御年貢勘定目録」の書き方.(様式)
 目録は毎年作られるのでその書き方(様式)は、ほぼ決まっています。
 目録の見出しのほか、①~④の順で書かれている。
① が年貢額と実際に上納するまでの過程を記した勘定目録の内容。
② は、名主が領主に宛てた差出文で、
③ と ④は、領主の役所が書いた部分。


(実写文書)
  ④  ③     ➁                      ①  

1)、見出し、
 目録の1行目が見出しで、「下総国葛飾郡幸谷村午(うま)御年貢勘定目録」と書かれています。 文政5年は午年だったので「午」と書かれています。毎年、その年の干支をこの部分に書かれます。
2)、➁は、差出文です。
 差出人は、幸谷村名主・武左衛門で、文政5年午年12月に御地頭所(領主)様御役人衆中に出しています。
 見出しでは分からなかった年号がここで分かります。
 文面は「当年の年貢勘定目録は書面の道りです。間違いがあれば書直し改めて差出します。」と書かれています。
3)、③は領主の役所の担当者が認める署名文言です。
 ③の文面は、「前書の通り勘定に間違いありません。午11月」と書かれてあり、役所の担当者と思われる蕨礎左衛門が署名をしています。
4)、④はさらに責任者が確認する部分です。
 ④は、目録の裏側に書かれています。「表書きの通り勘定に間違い無い」と書かれ、責任者と思われる沢井小弥太・三好彦兵衛・梅沢慶蔵の3人が再度確認して、著名押印しています。
 担当者と責任者が確認し署名捺印した勘定目録は、村が文政5年の年貢を正しく納入したことを示す“納税証明書”です。目録は左衛門に返され、大切に保管されました。

3、年貢の決め方とその納入
 ①に戻って、年貢の仕組と実際の上納について見ていきます。
1)、毎年の年貢は100俵=40石  
 年貢目録では、年貢を「取米(とりまい)と書いています。
 曲淵氏の表高187余石と新田や新畑の分を合せて、取米は、100俵となっています。
 1俵は4斗入りなので、100俵は40石。(1石2.5俵換算)
 石高の約21,4%となり、当時の言葉でいえば「二公八民」に近く、非常に低い年貢率です。
 この年貢率は、寛政10年から文久3年まで、65年間変わりませんでした。
2)、御用捨米(ごようしゃまい)
 文政5年の目録には、「内七拾七俵は水損に付き御用捨米仰せ付られ残る二十三俵御上納辻なり」、と書かれています。
 「水損」は、水による災害のことで、、文政5年の幸谷村は、水に苦しめられたのか、77俵の年貢上納を免除(御用捨)され、残り23俵だけを上納する事になり、(「辻」は、「合計」という意味)。ずいぶん思い切った減免措置です。
 「御用捨米」の適用は文政5年だけでなく、44年分の目録のうち、実に41年も適用されている。
水損22年、水腐2年、水防1年、干損5年、不作干損1年、不作4年、永荒1年、自普請料1年、などです。中には御慈悲(3年)、夫食祝儀(1年)という理由もありました。
 100俵を全納した年は嘉永元年(1848年)、文久2年、同3年の3回だけ。
 “減免税”が曲淵氏幸谷村では、ほぼ状態化していたと見受けられます。
3)、上納分から諸費を差引く
 23俵の.上納分から、さらに①醤油麦代として米1斗4升、➁暮に収めたもち米代として2俵、③名主の給米(きゅうまい)分として2俵、合せて4俵1斗4升を差し引ぎました。
結局、文政5年に上納する年貢は18俵2斗6升になりました。
 醤油麦代.と餅米代は年によって多少の違いはありますが、毎年差引きます。
「給米」は労賃として支払われる米です。
 弘化元年(1844年)からは、組頭にも2斗の給米が支給されるようになりました。
 関武左衛門は、天保12年(1841年)に武士に登用され、毎年4俵2斗(1.8石=一人扶持)が支給されています。これらも年貢の中から支払われています。
4)、上納する年貢をお金に換算する
 上納する18俵2斗6升(7石4斗6升)は、お金に換算されます。
文政5年の相場は、1.12石/両でしたので、換算して6両2分2朱と237文になりました。
 もっとも古い寛政10年の目録でも換金して上納しています。
年貢の金納制は、早い時期から行っていたようです。
5)、さらに貸金の利息を差引き、残金を上納する
 幸谷村は曲淵氏に3回計17両2分を貸していました(目録では「先納金」となっている)
 その利息分3両と銀30匁をまた差引します。
3両2朱と237文が残りました。
それに差出山の税342文を足した3両2朱と579文が、文政5年の最後の上納金となりました。
 米に対する約3,66石で、納税額は規定の年貢100俵=40石の一割にも満たないものでした

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このページは、blogskawano.netが2018年5月21日 07:20に書いたブログ記事です。

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