無年季的質地請戻し慣行について
下総の国葛飾郡幸谷村(現在松戸市)の事例を見てみましょう。
天保 15 年(1844 年) 1 月に、幸谷村の武左衛門は同村の万蔵に、約 300 平方メートルの 土地(万蔵の屋敷地を含む)を 3 両余りで売却しています。
この土地は、もともと万蔵家の所有地でしたが、60 年前(1784 年頃) 武左衛門家が質に 取り、その後、質流れになっていたのです。
質流れからでも、半世紀ぐらいは経っていた。
質流れ後も、万蔵は土地の管理を続けていました。
しかし、万蔵は屋敷地まで失ったことを常々残念に思っており、質流れになった土地の うち、屋敷地だけでも返してほしいと、武左衛門に頼みました。
そこで、武左衛門は、「格別の慈愛」を持って、家敷地などを売り戻すことにした
村と百姓の江戸時代
百姓たちの幕末維新
農村における本来的な百姓とは、土地を所有して自立した経営を営み、領主に対して年貢などの負担を果たし、村と領主の双方から百姓と認められた者に与えられる身分呼称であった。つまり、百姓とは、特定の職業従事者の呼称ではなく、職業と深く関連しつつも、村人たちと領主の双方が村の正規の構成員として認めた者のことだった。
百姓たちは、先祖伝来の所有地を手放すことについて非常に大きな抵抗感をもっていた。土地を失うということは御先祖様に顔向けできない大失態だった。
無年季的質地請け戻し(むねんきてきしっちうけもどし)慣行が存在した。
借金返済期限がすぎて請け戻せず、いったんは質流れになった土地でも、それから何年たとうが、元金を返済しさえすれば請け戻せるという慣行が広く存在していた。質流れから、10年、20年、場合によっては100年たっても請け戻しが可能だった。
これは、村の掟だった。村人たちが全体として貸し手に有形無形の圧力をかけることによって、この慣行は有効性を発揮した。
百姓たちがとった没落防止策として、経営の多角化を徹底させることがあった。