2019年2月アーカイブ





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マクロ経済の理解

 

おおざっぱに言えば、マクロ経済とは、多くの主体(個人、企業、政府等々)がそれぞれ活動する中、その個々の取引が集合して形成する経済のことを指すのだが、その全体像はなかなか見えにくく、また、いろいろな経済要素が複雑に絡み合っている側面があるため、理解が難しいのでは確かである。

 

しかし、経済取引は煎じ詰めれば、人々が物(サービスを含む)を生産し、それを人に売り、買った人が消費する、といったごくシンプルなバターンが基本であり、しかも、それは現代ではもっぱらお金でやりとりされるので、金額として集計することが可能であり、その意味で「数的」に比較したり、分析したり、捉えたりして、理解しやすい分野でもある。

にもかかわらず、マクロ経済について理解が十分である人は、いつまでたっても少ないように思われる。それどころか、テレビや新聞等で報道されるマクロ経済に関する主張の中には、正しくないと思えるものが多くある。そうした誤った主張がまかり通るのは、おそらく「構造」と言うものを正しく把握してないからではないか、ということだ。

 

マクロ経済と言うのは、ミクロ経済と違って、個々の論点だけを詳しく分析して正しい理解は得られないものだ。

ここで「会計学」の観点から説明すると、つまり、マクロ経済には確かに金利とか成長率とか「割り算」の世界もあるのだが、

売って、買って、お金を貸して、返して、と言う「足し算・引き算」だけでもマクロ経済は十分理解することができる。

計算と言うよりも、

誰かの売り上げは、相手の仕入れになる、

誰かの貸付は、相手の借り入れになる、

そして、

取引を資産・負債の増減と

収入・費用の発生

と言う両面から見るといった「複式簿記」的発想こそが、

実はマクロ経済の「構造」を理解する上では重要なのである。

 

日本国の巨額の累積債務の存在を良いことだとは思っていない。

それ自体が大いなる不均衡だからだ。

また、将来世代にツケを残して良いとも思っていない。

だが、将来世代にツケを残すなとか、そのために財政を健全化しなければならないと言う主張は、物事の全体と本質を理解していない短絡的な思考であり、逆に事態をますます悪化させることにつながりかねない。

日本国の累積債務は、ある意味で必然だったこと、そして、それは単に借金を削減すれば良いと言う単純なものではないこと、そもそも資本主義と言うものの性質上、実は借金が悪で貯金が善だとは言えないこと。

われわれはこれらを理解した上で、どうあるべきかを考える必要がある。

 

われわれはもう経済成長をむやみに追うのはやめ、諦めて、質素な生活をしようと言う意見に関しては、その思想自体を否定するものではないが、資本主義と言うものは他の経済システムに比べ、今のところ最も良い(ましと言うべきかもしれないが)ものであること、と言わざるを得ない。

そして資本主義の宿命として次々に前年を上回るような投資が発生し、経済成長をし続けなければならない。

―― 経済と言う名の自転車は倒れてしまう。―― 

そのことを考えれば、やはり経済を成長せざるをえないのであると考える。

ただし、人間は利己的なものであり、近視眼的になりがちな生き物である。

それが、本来使い回しすべきお金を、それぞれ必死に貯めこむ方向に駆り立て、なおかつ他者の犠牲の上に自分の今があることに気づかず、自己の利益ばかりを主張して、その結果として全体の利益が損なわれる。

人々のエゴが資産と所得の極端な偏在を生み、その結果、人間にたとえれば血液に相当するお金が経済と言う体を巡らなくなり、停滞して、そしてデフレは永続することになる。

これらは、人間の性格と資本主義の性格からもたらされる必然であるような気もする。

(また、「資本主義が経済成長を求めざるを得ないことが、地球資源の有限性から見てもそもそもの問題点である」との批判があるとすれば、その批判は甘受せざるを得ない。資本主義とは様々な問題を孕(はら)んだシステムであるのは確かだろう)

今日の世界経済において、格差の存在を問題視している経済学者は少なくない。

国民の最低限度の生活を保障するためにベーシックインカムと言う政策を提唱するものもいる。

それは、国民一人ひとりに一定の現金を給付すると言う制度だ。

仮にこれが実施されれば、貧困層の購買力が向上し、総需要の増加も期待できるだろう。

このようにたくさんの格差の存在をカバーする政策が真剣に議論されている中、それに逆行する格差拡大の政策が導入されようとしている。消費税増税である。消費税の税率は国民共通であるが、低所得者層ほど収入から生活費に回す金額の割合が高くなり、消費税の負担は相対的に重くなる。ただでさえ所得格差、資産格差があるのに、それを助長しようとしているのだ。

増税となると、間違いなく総需要はいっそう冷え込み、当然、企業は国内に投資をしようとせず、デフレは悪化するだろう。

資本主義そのものを変えることは困難であろう。そうであるならば、国民の多くがマクロ経済の本質とその構造を十分に理解して、事態の悪化を阻止するように行動しなければならない。


寺中構想と公民館の設置及び運営について

 

  公民館は、戦後の荒廃し混乱した社会状況の中で、新しい日本を築き上げるには教育 の力が必要であり、その一つの核として公民館の設置が提唱され、郷土再建の拠点としよう とするところから始まりました。

  公民館をイメージさせるものは、当時、文部省の社会教育課長であった寺中作雄氏が打ち 出した、寺中構想とも呼ばれている「公民館の建設-新しい町村の文化施設」です。この元 となる文部次官通牒「公民館の設置運営について」(昭和2175日付)の中で、『公民館 とは、「全国の町村に設置すること」「町村民の集合場所であること」「生活上・産業上の 指導を受ける場所であること」「お互いの交友を深める場所であること」「郷土の教養文化 の機関であること」「青年団・婦人会などの文化団体の本部であること」「町村民の自主的 要望と協力によって設置されること」』と示されています。文部省は昭和22年から補助金 を制度化し全国に公民館の設置を奨励しました。

  そして、昭和246月には、公民館を規定した社会教育法が制定され法的整備が図られ ました。その第5章「公民館」に多くの条文をついやして公民館の目的、設置者、事業、運 営方針、基準、職員、公民館運営審議会など詳細に明示されています。特に第20条には、 公民館の目的として「公民館は、市町村その他一定区域内の住民のために、実際生活に即す る教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もつて住民の教養の向上、健康の増進、 情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与することを目的とする。」とう たっています。

  このことは、公民館は単なる貸館的な施設ではなく、地域住民の日常生活に密着して、そ の課題解決を図るための総合的な社会教育施設であるということを示しています。またその 運営は、地域の人々の生活に根ざして、地域住民が主人公となって行われるべきとされ、そ の意味では住民自治や住民主体の機能と性格を持った施設ともいえます。

  このような目的を持った公民館ですが、社会を取り巻く状況の変化とともに、時代時代に おいて課題も変わり、これらへの対応策として出された社会教育法の改正・各種答申等に沿 って、変遷を繰り返し現在に及んでいます。

  今日の公民館活動の目的、公民館に課せられている役割(機能)として、地域の連帯感を 醸成し、学校などの関係機関、団体、サークル等と連携して、地域に根ざした公民館活動の 展開が期待されています。





公民館の設置及び運営の基準




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