寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」

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寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
 


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寺田寅彦の文学における師である夏目漱石の追憶のために書かれた作品。寅彦の全エッセイの中でも最も有名なもので、特に漱石の作品の裏話的な話題が豊富に記載されていることから、漱石文学に関する貴重な資料として研究者からも重要視されているエッセイです。
 
  まず熊本の高等学校時代、英語教師として赴任していた漱石との出会いから話が始まります。そこでは当時の漱石の高校での授業の様子が書かれています。
 
    教場へはいると、まずチョッキのかくしから、鎖も何もつかないニッケル側の時計を出してそっと机の片すみへのせてから講義をはじめた。何か少し込み入った事について会心の説明をするときには、人さし指を伸ばして鼻柱の上へ少しはすかいに押しつける癖があった。学生の中に質問好きの男がいて根掘り葉掘りうるさく聞いていると「そんなことは、君、書いた当人に聞いたってわかりゃしないよ」と言って撃退するのであった当時の先生は同窓の一部の人々にはたいそうこわい先生だったそうであるが、自分には、ちっともこわくない最も親しいなつかしい先生であったのである。
科外講義としておもに文科の学生のために、朝七時から八時までオセロを講じていた。・・

    ちなみに文中の「オセロ」というのはシェイクスピアの有名な作品のことです。それにしても、「そんなことは、君、書いた当人に聞いたってわかりゃしないよ」という漱石の言葉は何とも愉快で、この21世紀の現在の日本においても、おそらく漱石の「こころ」などの作品は、高校の期末試験なり大学の入学試験なり、とにかく国語の試験問題として、よく取り上げられるところですし、高校時代に例えば「『こころ』の以下の部分で作者は何を言おうとしたのか、次の中から選べ」みたいな問題、何度となく目にしたものですが、漱石に言わせれば、「そんなことは、君、書いた当人に聞いたってわかりゃしないよ」ということになるのではないでしょうか。

   そのあと、上京したおりに漱石の紹介で正岡子規に面会したこと、漱石がイギリスに洋行する際に横浜へ見送りに行ったこと、漱石がイギリスから帰国して東京・千駄木へ居を定めてからは、三日にあげず遊びに行ったこと、そして「吾輩は猫である」で漱石が一足飛びに有名になってしまったこと、などが順々に語られていきます。

    そして、その「猫」に出てくる水島寒月が語る有名な講釈「首つりの力学」が、寅彦が漱石に話したレヴェレンド・ハウトンという学者の論文を元に書かれたことが明かされています。「高等学校時代に数学の得意であった先生は、こういうものを読んでもちゃんと理解するだけの素養をもっていたのである。文学者には異例であろうと思う。」とも書かれています。

    また、「Tは国のみやげに鰹節(かつおぶし)をたった一本持って来たと言って笑われたこともある」というエピソードも、漱石の「猫」にそのまんま出てくる話です。
 
    「虞美人草」を書いていたころに、自分の研究をしている実験室を見せろと言われるので、一日学校へ案内して地下室の実験装置を見せて詳しい説明をした。そのころはちょうど弾丸の飛行している前後の気波をシュリーレン写真にとることをやっていた。「これを小説の中へ書くがいいか」と言われるので、それは少し困りますと言ったら、それなら何か他の実験の話をしろというので、偶然そのころ読んでいたニコルスという学者の「光圧の測定」に関する実験の話をした。それをたった一ぺん聞いただけで、すっかり要領をのみ込んで書いたのが野々宮さん」の実験室の光景である。聞いただけで見たことのない実験がかなりリアルに描かれているのである。これも日本の文学者には珍しいと思う。
    この「光圧の測定」は漱石の「三四郎」に出てくる有名なエピソードで、小説中、野々宮が所属する東大の理学研究室を訪問した三四郎が、そこで野々宮の研究テーマである、光の圧力の測定を目の当たりにして驚かされ、そのあと研究室を出て、池(今でいう三四郎池)の周りをブラブラしていると、そこでヒロインの美禰子に出会うことになるわけです。

    臨終には間に合わず、わざわざ飛んで来てくれたK君の最後のしらせに、人力にゆられて早稲田まで行った。その途中で、車の前面の幌にはまったセルロイドの窓越しに見る街路の灯が、妙にぼやけた星形に見え、それが不思議に物狂わしくおどり狂うように思われたのであった。
   先生からはいろいろのものを教えられた。俳句の技巧を教わったというだけではなくて、自然の美しさを自分自身の目で発見することを教わった。同じようにまた、人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎むべき事を教えられた。
 しかし自分の中にいる極端なエゴイストに言わせれば、自分にとっては先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが、英文学に通じていようがいまいが、そんな事はどうでもよかった。いわんや先生が大文豪になろうがなるまいが、そんなことは問題にも何もならなかった。むしろ先生がいつまでも名もないただの学校の先生であってくれたほうがよかったではないかというような気がするくらいである。先生が大家にならなかったら少なくももっと長生きをされたであろうという気がするのである。

    ここは何度読んでも胸を打たれます。「むしろ先生がいつまでも名もないただの学校の先生であってくれたほうがよかった」というあたり、寅彦の赤心が直截に滲み出た、まさに迫真の叙述というべきものではないでしょうか。

 

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このページは、blogskawano.netが2019年5月22日 07:49に書いたブログ記事です。

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