江戸時代 お金と経済のしくみ
米を貨幣にする装置が「大阪」
大阪にあった蔵屋敷の機能
債権の決済を利用した為替のしくみ
貨幣経済に巻き込まれた幕臣の給与体系
幕臣の給与は基本的に「米」
蔵米取は2種類あった 「切米取」、「扶持取」
どうして「札差」が力を持つようになったのか
給与が米だったため、札差に依存せざるを得なかった
もともとは現金化商店
じつは利息は市中金利より安かったが、、、、
札差に頭の上がらない旗本・御家人
業界団体を使って経済政策を浸透させた
業界の組合をうまく利用して、物価や業界を統制するシステムを構築
当初は禁じられていた「仲間」(業界団体)
問屋・株仲間を使って物価統制を狙う
米の徴収から流通税にシフト
問屋や株仲間を使って商業秩序を維持していた
問屋や株仲間の公的性格
同業者の経営を維持するしくみ
爛熟期の江戸・・・問屋・株仲間がキーとなった経済政策
問屋規制の失敗による反省から、より自由な経済活動への基盤が出来上がった。
アメとムチを駆使して資金調達
すべての問屋・株仲間の解散で金融機能が混乱!
諸問屋再興で経済の活性化を
「諸問屋再興」と江戸の経済
江戸東京はどのように作られてきたのか?
なぜ発展し続けられたのか?
について、地理的な特徴、経済の発達と言う視点から話を進めてきた。
この作業を通じて、そうした都市に江戸・東京がなることができた背景には、江戸の地形、関東における地理的条件、日本列島の中での江戸の位置といった物理的な条件はもちろん、そこでの人々の営み、交通や流通の時系列的な積み重なりが強く影響している事がわかる。
それが融合し合いながら、人・モノ・カネ・情報などの膨大で、多様なインプットを引き寄せ、様々な分野での新たな価値の創造と発信を続けることができた。
もともと江戸は、そうした活動の舞台となるのに適した地理的条件を備えた場所だった。
鎌倉から室町時代の江戸は、関東一円を東北、甲信地方のほか、大陸からの交易船も呼び寄せる場所であり、少なくとも8世紀にはその片鱗が見える。豊臣秀吉は、そうした江戸の戦略的価値を認識していたからこそ、徳川家康を江戸に配したのであった。
江戸時代になると、徳川政権によって江戸は大改造された。原地形には手が加えられ、江戸の地理的範囲も広がった。
中世以来の水運の"ハブ機能"を備えた江戸を再編、改造して、インプットとアウトプットの機能を高めたことが、約260年間にわたって徳川氏が政権を維持できた理由の1つである。
それ故、江戸時代の早い時期には、すでに資本主義的な世の中が到来していた。
貨幣経済の急速な発達、金・銀・銭の変動相場で利益を上げる両替、
金融市場や労働市場、米の先物取引などが定着し、人々が使いこなす社会が訪れていたのである。
町人の自治的組織を使った都市行政、列島規模の流通システム、問屋・株仲間を駆使した経済対策のノウハウも蓄積されていた。
武家政権であるはずの江戸幕府が、市場メカニズムを前提とする経済政策を展開していたのであった。
日本の教育では、江戸時代と明治時代以降で歴史を区切るのが一般的で、両者の間に大きな断絶があるかのように錯覚することが多い。
しかし、江戸・東京の骨格も、資本主義的なシステムや人々の経済との付き合い方も江戸時代に確立しており、明治以降の日本に引き継がれ、その発展に大きく寄与している。
それらを浮かび上がらせるのが「地形」と「経済」を同時にキーワードにしながら、江戸・東京の発展のプロセスを見ていく作業なのではないだろうか。
そうした作業は、過去を振り返るためだけのものではない。
むしろ、これからの東京の集めて、発する機能をさらに高めていく上で、何かしらの貢献に結びつくことを願うものである。
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