2019年8月アーカイブ

2019-8-27  ならしの 歴史の会
江戸商人の人生観と相続
伊勢屋伊兵衛の遺言書を読む
    法政大学  筑後    則  さん

    日本橋の鰹節伊勢屋伊兵衛は寛延2年(1749)36歳で3代当主を襲名、相続時1600両の資産を10倍超にして安永8年(1779)に66歳で他界。
    死の2年前64歳の時に認めた「遺言書」には、葬儀、法事の詳細、顧客の大名家や問屋仲間、町内への忌明け礼状、遺産分与、4代目若夫婦への店経営、奉公人差配、仲間や近隣との交際、火の用心、次女の婚礼先、孫の養育等について、詳細な指示と諸注意を書き残している。
「遺言書」から、江戸中期の証人の人生と生きがい、社会観、商業観などを考えます。
 
(図表は下から参照)
 







 
 

 

 

 

 

 

 

 

江戸商人の「遺言書」

 

1、伊勢屋伊兵衛

伊勢四日市出身の初代が元禄12(1699)江戸日本橋で創業した鰹節商。

宝永元年(1704)小舟町に鰹節問屋出店、同2年屋号を「伊勢屋伊兵衛」とし、加賀藩邸の御用を受ける。

以後、大名家との取引を増やす。

享保5(1720)瀬戸物町に現金売りの店を出し、6年土蔵へ建直し、7年本店を同所に移転。幾度もの危機を乗り切り、3(安永期、1770年代)までに、江戸を代表する鰹節商となる。

2019年現在創業320年。3代伊兵衛が必要な記録を残す。今日の伊兵衛氏は第13

 

2、三代伊兵衛幸通の人生

出生 正徳4(1714) 715日、幼名伊之助 父、伊勢屋主人伊兵衛(高津氏) 母おはつ。

家族 父伊兵衛佐幸、母おはつ(享保2年没)、長兄太郎(2代伊兵衛)、次男伊之助(3代伊兵衛) 後母(享保4年より)、ぎん(連れ子)、三男長次郎(享保5年出生) 祖母おたつ(永松尼)

教育 享保5年寺上がり、その後「宗儒の理学」を習う→朱子学

父病没 享保14(1729)4月、享年51歳、兄18歳で2代伊兵衛襲名、伊之助は元服して茂兵衛と改め16 幼い兄弟の後見人、万代屋に加賀藩御用など得意先を奪われ、以後、商い凋落する。

弟養子 享保19年、三男長次郎15 持参金を持ち、伊勢四日市の本家に入る

2代伊兵衛婚礼 元文2(1737)、妻おまん、同4年、長男長太郎を生み、17歳で没

元文5(1740)、長太郎疱瘡で死亡 2代伊兵衛発病

茂兵衛(後に3代伊兵衛当主代名代 元文5年、27

再建計画 寛保2(1742)、商い低迷、倹約のため経費計画をつくり実践

神を病む兄に神田の八兵衛娘しゅんを妾とする 翌年、金蔵出生

茂兵衛婚礼 延享4(1747)34 妻おため(本所小松屋の娘)

兄としゅんの男児金蔵、疱瘡で死去 2代伊兵衛、ほぼ人格崩壊

三代伊兵衛襲名 寛延2(1749)8月、2代没、茂兵衛が当主となる。36

以後、商勢回復、隆盛に向かう

長女おもん出生 寛延3(1750 )8

長男文之助出生 宝暦11(1761) 9

次女おため出生 宝暦14(1764)4

妻おため逝去 同年5月、おため、出産後の養生ならず容体急変、死去、33

「追遠訓」書く 明和元年(1764)7月、伊兵衛51

長男文之助死去 明和4(1767)2 享年7

病を得る(中風) 明和67

後継者選ぶ 明和7(1770) 57 手代伊七を長女おもんの婿とする

大商い 安永元年(1772) 59 短期間に数千両を得る

「遺嘱」書く 安永3(1774) 62 同年6年に一部改定

「福寿録」「養老誌」著す 安永4(1775) 62

「無言語」著す 安永6(1777)

死去 安永8(1779) 行年66

 


データの利活用による検査・監査・評価の改善

近年、ビックデータの利活用を始めとして、社会におけるデータの利活用への関心は高まっており、平成28年には官民データ活用推進基本法(平成28年法律第103)が施行され、官民データの適正かつ効果的な活用の推進が図られるなどしている。

国の取り組みを見ると、政府全体でEBPM(証拠に基づく政策立案)が推進されており、統計等のデータをもとに政策の企画立案過程を変革する取り組みが開始されている。

また、地方公共団体では、統一的な基準により整備した地方公会計に係る財務書類等の活用方策の検討は進められ、独立行政法人においても、財務報告のより一層の活用に向けた取り組みが進められている。

このように、各分野でデータをもとにした業務の改善が図られているなか、検査・監査・評価の分野においてもデータを有効活用して、その内容の改善を図るとともに、検査・監査・評価対象の事業の改善に結びつけていく必要がある。

そこで、公会計の検査・監査・評価に携わる各機関が、データをどのように検査等の現場で利活用しているか、また今後どのように活用すべきかなどの点について議論する。


基調講演・シンポジュウムのメモより






2019-8-3  酷暑の中、埼玉県志木市にて利根川文化研究会 研究報告会に行きました。
日時 2019年8月3日(土)13:30~16:30
会場 志木市宗岡第2公民館405会議室
報告 
 酒井智晴氏「東上鉄道開通後の河岸問屋定雇船による肥料仕入輸送――大正期新河岸川筋下新河岸伊勢安の定雇船を中心として」
 原 淳二氏「「中利根川」の誕生」について


地方文書や客観データに基づく実証的な説明、大変良かったです。


    新河岸川の水運による肥料輸送が大正期に東上鉄道開設により、輸送の移行・転換により、肥料専売の河岸問屋は、衰退に繋がっていった、という説明に対して、

 それによって、むしろ肥料市場は拡大し、川越駅に集散した。
 しかし、水運業者は輸送業ばかりか、販売市場対応について十分な対応に至らずに、旧弊に依存し、衰退していったのではないか、
そういう史料、データの発掘はなかったのか?など
組織経営論からの質疑・議論は、大変面白かったです。



「中利根川」の誕生について(配布レジメより)

    従来、江戸時代の利根川についての研究と言えば、いわゆる「利根川東遷論」、利根川の東流問題であり、それについては色々と議論が交わされてきたところである。
    しかし、そこでは史料不足や史料批判の未熟さなどがあって、納得できる議論が展開されているとは言い難いのではないだろうか。
    そもそも史料が地方に残されていないのは、江戸時代初頭における利根川の改流はまさに「国家プロジェクト」(江戸への物流路を形成する)として行なわれたからなのである。
    それは差し置いて、近世利根川治水史の研究では解明されるべき問題が多く放置されたままである。
    河田、根岸、吉田、栗原といった諸氏の研究をそのまま前提とした研究が多く、治水分野において基本的に明らかにすべき問題が等閑されたままで、近世史研究としての進歩が感じられないでいる。
    例えば「常陸川」や「中利根川」といった我々が研究上、何気なく使っている用語に潜む問題である。
    「常陸川の再検討」では、18世紀以降、水戸藩の利根川舟運の隆盛とその管理強化に相まって広がった常陸川と言う呼称が、明治時代になって河田により利根川改流以前の長井戸沼などを水源とした流れの名称とされてしまったことを明らかにした。
    これに限らず、同じような思い込みはいくらでもあるのである。
    そこで、今回は利根川の区分としての(行政的にも)、上中下利根川と言う事について検討したい。
    まだ、「中利根川」を幕府の治水行政上に明確に位置づけた文書が未発見で、中間報告的な話になる。(提示資料より)

一    利根川の一般的区分認識
二    18世紀前半までの利根川の行政区分
 1、正徳4年の御手伝御普請
 2、宝永元年の御手伝御普請
 3、18世紀前半の勘定所による
三    「中利根川」の時間的把握
 1、寛保2年の御手伝御普請
 2、上中下利根川の時間的把握
四、栗橋と布佐・布川がどうして境目になるのか
 1、上利根川の境としての栗橋
 2、下利根川の境としての布川
五    「中利根川」の誕生
 1、宝暦7年の大洪水
 2、安永10年の御手伝御普請
 3、天明〜文政期の「中利根川」
六    「中利根川」の定着







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