2019-8-3 酷暑の中、埼玉県志木市にて利根川文化研究会 研究報告会に行きました。
日時 2019年8月3日(土)13:30~16:30
会場 志木市宗岡第2公民館405会議室
報告
酒井智晴氏「東上鉄道開通後の河岸問屋定雇船による肥料仕入輸送――大正期新河岸川筋下新河岸伊勢安の定雇船を中心として」
原 淳二氏「「中利根川」の誕生」について
地方文書や客観データに基づく実証的な説明、大変良かったです。
新河岸川の水運による肥料輸送が大正期に東上鉄道開設により、輸送の移行・転換により、肥料専売の河岸問屋は、衰退に繋がっていった、という説明に対して、
それによって、むしろ肥料市場は拡大し、川越駅に集散した。
しかし、水運業者は輸送業ばかりか、販売市場対応について十分な対応に至らずに、旧弊に依存し、衰退していったのではないか、
そういう史料、データの発掘はなかったのか?など
組織経営論からの質疑・議論は、大変面白かったです。
組織経営論からの質疑・議論は、大変面白かったです。
「中利根川」の誕生について(配布レジメより)
従来、江戸時代の利根川についての研究と言えば、いわゆる「利根川東遷論」、利根川の東流問題であり、それについては色々と議論が交わされてきたところである。
しかし、そこでは史料不足や史料批判の未熟さなどがあって、納得できる議論が展開されているとは言い難いのではないだろうか。
そもそも史料が地方に残されていないのは、江戸時代初頭における利根川の改流はまさに「国家プロジェクト」(江戸への物流路を形成する)として行なわれたからなのである。
それは差し置いて、近世利根川治水史の研究では解明されるべき問題が多く放置されたままである。
河田、根岸、吉田、栗原といった諸氏の研究をそのまま前提とした研究が多く、治水分野において基本的に明らかにすべき問題が等閑されたままで、近世史研究としての進歩が感じられないでいる。
例えば「常陸川」や「中利根川」といった我々が研究上、何気なく使っている用語に潜む問題である。
「常陸川の再検討」では、18世紀以降、水戸藩の利根川舟運の隆盛とその管理強化に相まって広がった常陸川と言う呼称が、明治時代になって河田により利根川改流以前の長井戸沼などを水源とした流れの名称とされてしまったことを明らかにした。
これに限らず、同じような思い込みはいくらでもあるのである。
そこで、今回は利根川の区分としての(行政的にも)、上中下利根川と言う事について検討したい。
まだ、「中利根川」を幕府の治水行政上に明確に位置づけた文書が未発見で、中間報告的な話になる。(提示資料より)
一 利根川の一般的区分認識
二 18世紀前半までの利根川の行政区分
1、正徳4年の御手伝御普請
2、宝永元年の御手伝御普請
3、18世紀前半の勘定所による
三 「中利根川」の時間的把握
1、寛保2年の御手伝御普請
2、上中下利根川の時間的把握
四、栗橋と布佐・布川がどうして境目になるのか
1、上利根川の境としての栗橋
2、下利根川の境としての布川
五 「中利根川」の誕生
1、宝暦7年の大洪水
2、安永10年の御手伝御普請
3、天明〜文政期の「中利根川」
六 「中利根川」の定着
歴史研究の王道は、地方文書や客観データに基づく史実の実証的な説明であります。
歴史叙述は、情報選択、データの分析、事象の解析、総合等、研究の醍醐味です。
大変良かったです。