世界史とは何か、どう伝えるか

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世界史とは何か、どう伝えるか  岩波新書


 日本の世界史教育は明治時代の支那史と万国史(ヨーロッパ史)の二本立てに始まる長い歴史を持っているのだが、世界史学の理論を説いた書物は意外に少ない。その意味でも本書の出版は非常に意義深い。

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 それにしても岩波新書にしてはめずらしく350頁を超えるぶ厚さで、編者の小川・成田両氏にゲストも加えての対話形式とあって議論も多岐にわたる。
 まずは本書で取り上げられている課題テキストの紹介と、主となる論点を取り上げたい。

第1章 近世から近代への移行
大塚久雄『社会科学の方法』(岩波新書)
川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)
岸本美緒『東アジアの近世』(山川世界史リブレット)
 大塚久雄はゲルマン的共同体からの資本主義の発生過程を説き、それが長らく世界の「近代化」の基準とされてきた。それに対し、ウォーラーステインは世界システム論を展開して資本主義の重層的な性格を明らかにし、その理論を砂糖という商品に即して示したのが川北の著作である。さらに岸本は世界的な銀流通に注目して、日本や東アジアから見た「近世」を描き出す。日本の伝統社会が集団性の高い「固い」タイプであるのに対し、中国は流動性の高い「柔らかい」タイプであり、それが両国における商業文化に及んでいるとところがポイントである。

第2章 近代の構造・近代の展開
遅塚忠躬『フランス革命』(岩波ジュニア新書)
長谷川貴彦『産業革命』(山川世界史リブレット)
良知力『向こう岸からの世界史』(ちくま学芸文庫)
 遅塚はフランス革命の理想に共鳴しつつ、旧体制の急激な破壊を「劇薬」に例え、恐怖政治はその副作用であったとする。しかし編者や長谷川は、イギリスの産業革命について、それが「革命」という呼び名とはうらはらに長期的かつ緩慢な変化であったこと、主体となった労働力の構成(例えば女性や児童の労働など)についても再検討を要することを説く。良知の著作は多民族国家であったハプスブルク帝国を題材に、国民国家による近代化という図式に疑問を投げかける。

第3章 帝国主義の展開
江口朴郎『帝国主義と民族』(東京大学出版会)
橋川文三『黄禍物語』(岩波現代文庫)
貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』(岩波新書)
 江口はマルクス主義の立場に立ちつつも、近代において資本主義と国民国家の形成・帝国主義の同時展開があったことに注目する。橋川の著作は「黄禍論」の古典的著作である。これに対し貴堂は、19世紀を境にアメリカが「奴隷国家」から「移民国家」に移行したと説き、さらに同じ移民でもヨーロッパ系とアジア系のあいだで「選別」が行われていたことを強調する。

第4章 20世紀と二つの世界大戦
丸山真男『日本の思想』(岩波新書)
荒井真一『空爆の歴史』(岩波新書)
内海愛子『朝鮮人BC級戦犯』(岩波現代文庫)
ゲストはアフリカ史研究者の永原陽子
 丸山の著作は日本の「特殊近代性」を欧米と対比しつつ説いたものである。それに対し、荒井は第一次世界大戦からイラク戦争までの空爆の歴史を振り返り、「戦力における非対称性」「死傷者における非対称性」に注目し、日本も欧米諸国の植民地戦争と同じ道をたどってきたことを明らかにする。そして編者と永原は、内海の著作を題材に「植民地責任論」について議論する。

第5章 現代世界と私たち
中村政則『戦後史』(岩波新書)
臼杵陽『イスラエル』(岩波新書)
峯陽一『2100年の世界地図 アフラシアの時代』(岩波新書)
 中村は「貫戦史」という観点から、戦前と戦後の日本社会の連続性を説く。臼杵は世界の様々な地域を出自とする「ユダヤ人」とアラブ系のパレスチナ人によって構成されるイスラエル国家の複雑性を描き出す。そして峯は、今後100年の世界がアフリカ大陸と東南アジアからなる「アフラシア」を軸として展開すると予測する。

 以上、これらを1冊の新書に収めた編集力には感服せざるを得ない。
 ただ、各章においてそれぞれの課題テキストを史学史上に位置付けるところから議論を始めているために、本書の理解がいささか複雑なものとなり、かつ分量も余計に多くなっている。
 評価について、例えば、大塚久雄も丸山真男も、確かに学生の頃読んだり読まされたりした。
 しかし、歴史総合の授業が明日にも始まろうというこの時に、(本書の第一の目的が歴史総合という科目の理解にあるのならば)大塚や丸山から現代の歴史教育を説き起こしている。
 こうした「戦後史」も歴史教員に必須の「教養」であると言われればぐうの音も出ない。
 いわゆる「主体的で対話的な深い学び」(アクティブラーニング)と知識学習との関係も気になるが、本書の続巻の刊行を楽しみにしたい。

①新設科目『歴史総合』の授業を行う教師や世界史を復習したい社会人対象に執筆されたガイドブックが本書である。学びを対話により実践に深める目的で文献を読み、議論と対話を深める内容構成になっている。
②とりわけ、大塚久雄『社会科学の方法』(岩波新書)を題材に大塚史学を批評する。本書では大塚久雄の問題提起を、ウェーバーとマルクスの総合に見いだし、議論を開始する。
③ところで、ウェーバーとマルクスに共通する人間理解は、資本主義的生産様式における<類的存在>=<理念型>としての労働者階級の存在である。
④マルクスの場合、労働者階級は、<人間(労働)疎外>に陥り、自己の労働を資本家によって奪われ、主体性を喪失している。マルクスにとっての解決策は、資本主義的生産様式の廃棄を実現する社会主義革命による共産主義社会の建設である。
③ウェーバーが理念型として提示するのは<ホモ・エコノミクス(経済人)>としての人間類型である。それは主体的に労働し、余剰生産物を禁欲的に蓄積して利潤を殖やす「合理主義」的人間存在である。
④このようなマルクス=ウェーバー的な人間理解を総合すると、<ホモ・エコノミクス(経済人)>とは、「独立小生産者」となり、その生産協同組合的組織が理想的な社会ということになるのではないか?
⑤大塚久雄は『社会科学における人間』(岩波新書)において、渋滞に巻き込まれたドライバーを人間疎外の典型的場面として例示した。渋滞において自己は無力であり、そこに主体性を発揮する余地はない。つまり、渋滞(資本主義的生産様式)は廃棄するしかないものである。
⑥ウェーバーから大塚久雄が取り入れた「合理主義」は、利潤の計算、失敗の原因を因果関係を分析して究明すべきものである。
⑦大塚久雄から学んだ内容を議論(批評)し、考察した内容を発表することが本書が意図する「実践」である。
⑧「歴史総合」のみならず、社会人の学びに最適な本である。

4月から全国の高校で「歴史総合」が始まる。この影響で、たぶん様々な近現代史の新書が出版されたことは結構なことである。
○本書は「歴史総合を学ぶ」シリーズ全3巻のうちの第1巻。全5章からなる。
○各章の進行の基本形式は・・
①テーマに関連した基本書2冊を成田氏と小川氏が読み解く。
②ちょっと分野の違う(ように見える)ゲストが出てきて、ゲストの分野からこの2冊とテーマについて述べる。
③次にゲストの本1冊を成田氏と小川氏が読み解く。
④この後ゲストとの対話となり、Q&A形式でゲストがテーマと自分の本について論述していく。時に3人での議論となる。
このパターン通りなのは第一章と第三章、ちょっとパターンを崩したのが第二章と第五章、さらに崩したのが第三章となる。

○各章のテーマ、基本書、ゲスト、パターンは・・。
基本書15冊のうち14冊は新書・ジュニア新書・文庫・リブレットで、高校生にとって入手しやすい本、図書館にある確率の高い本から選ばれているようである。
○本書の内容は歴史好きの読者にとってはなかなか面白いと思う。しかし、もし「歴史総合」の授業がこういう風であるなら、これを義務として学ぶ高校生はなかなか大変、ちょっと気の毒に思う。
○「はじめに」で「歴史知識万能論なるもの」(暗記第一主義かな)が批判されているが、私は少年少女の教育としての暗記第一主義が嫌いではない。英語も数学も歴史もまず暗記。一定限の歴史知識がなければ応用問題は解けない。たとえ試験後3日で全部忘れてしまったとしても、それは暗記しなかったことと同じではない。・・・などと面倒くさいことを言っていてはいけないので、最新科目「歴史総合」がどうなっていくのかしっかりウォッチングし、謙虚に「歴史総合」について学んでいきたい。つづく第2巻も第3巻を期待している。
○各章末の「歴史への問い」はなかなか良くできていて、解いていく(というより、該当箇所を読み直す)と本書の復習となった。
○全5章のうちで一番面白かったのは第三章『帝国主義の展開』。橋川文三の異色の著『黄禍物語』が小川氏、貴堂氏に批判されつつ基本書に入っているのが面白い。

ネットコメントより、
 この新書は高校生を対象としたものではなく,恐らくは高校教師を対象として書かれたのであろう。内容的にもかなり高度で,すんなりこの内容に入っていける,また内容に共鳴できる教師はそんなに多くないのではないか。

 現在の高校教科書(地歴)は,大学の教授陣が執筆して,恐らく編集協力者という名目で有名高校の優秀な教師が意見を申し述べるという形で作られているのではないかと思うが,教科書のレベルと現実の高校生の能力・学力との間には,大きな乖離がある。執筆者である大学の教授陣は勿論,編集協力者の高校教師も,現実の多くの高校生の実態はいかなるものか?

 一昔前の教科書は,多様なレベルの高校生にも分かり易く,もう少し丁寧に執筆されていたように思うのだが,昨今の教科書は,「歴史総合」に限らず,「世界史」や「日本史」でも,学問の最先端の学説を導入して,大きく変貌している。特に大学で歴史を専攻するような学生を対象とした(それも一部の有名大学の学生),また,将来の歴史研究者となるような学生を対象とした,大学の教養課程用のテキストの趣がある。教科書執筆者が考えるような「高校生像」はいかなるものであろうか。恐らくは,勤務する大学の優秀な学生を高校生一般と取り違えているのではないかと推量する。

 一方で,授業時間数の減少に見合うように教科書の内容が減少しているかというと,決してそのようなことはなく,旧態依然とした知識のてんこ盛り状態で,これでは現実の高校生は窒息してしまう。「歴史総合」にしても,現実に授業時間数は週2時間で,年間通してどれくらいの授業時間が確保できるだろうか。学校行事,定期考査,高校入試,その他さまざまな行事が行われる中で,授業のカットは頻繁に行われる。週2単位で,生徒(恐らく高校一年生)にこの「歴史総合」の内容を本当に終えることができると考えているのだろうか。現実の高校生の能力や理解力,高校現場の実態を考えれば,本書の内容はまさに,言葉は決して適切ではないが,現実に立脚していない(ごく普通の高校生の発達段階を無視している)「形而上学」の世界である。

 著者の一人の小川幸司氏は東京大学を卒業された後,長年,長野県の高校現場で世界史を指導してこられ,現在は高校で管理職をされているという。過去,指導困難校で教鞭をとられたこともあり,これまでの氏の実践・研究の成果が『世界史との対話』3巻本(地歴社)である。この本の中には,氏が「歴教協」の大会で発表された,現実の受験教育を批判したレポートも,参考資料として掲載されており,歴史教育に対する氏のスタンスが垣間見える。この『対話』を読んで,高校現場で苦悩する歴史教師としての氏には共鳴することも多々あり,また,長野県にこのような優秀な高校教師がいたのかと,感嘆したほどである。

 そのため,非常に期待を持って本書を繙いたが,はっきり言って、校現場を知り尽くした氏とは思えないほど,完全に学問の世界に没頭しきっているようにしか思えなかった。内容が高度,読了するのにも随分と時間と努力が必要。
 小川氏及び成田氏の深い洞察力と学問的レベルをもってして書かれた本書は,高度な水準の知識階級を対象とした書としては,出色の出来映えかもしれないが,現実の多様な高校生への授業に苦闘する教師向けの書と思う。
 現役引退した世界史の教師が、成田龍一の歴史論集3巻読んだ後で読んでみた。隠居の気楽さで現役の先生方のご苦労を追体験してみよかと、軽い気持ちで読み始めたけど、途中で挫折。これは、教員養成系の大学でのゼミ用テキスト(というより教科書)として複数人で読み合わせる本でしたね。一般の読書人が一人でじっくり読むのにはハードルが高いような気がします。
 
 近現代を時代別に全5章とし、各章で3冊の歴史書を読み、鼎談で認識を深めるという一見魅力的な方法だ。

 学習指導要領が改訂されるたびに、「よく読んで理解しそして忘れず」みたい、どんな時も「回顧と展望」だけは欠かさない、歴研流歴史学による「歴史総合」だ。

「読者の読みやすさを考えて、発話の順序・内容を再編集したもの」だそうで、高校世界史の教師ならこれくらいがわかり易かろうってか? 授業の現場で生徒のアクティヴ・ラーニングを目指座している。

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このページは、blogskawano.netが2022年12月 6日 09:49に書いたブログ記事です。

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