(利根文化研究会) 2023-9-17
19世紀以降の羽生領等3か領の排水処理問題 赤堀川拡幅問題との関係で
原 淳二さん講義メモ
問題設定
文化・天保期に行われ、また行われようとした赤堀川拡幅について、その同時期に羽生領など、3か領での悪水処理問題が起こっていると言うことで、何らか双方に関係があるのではないか、と言う疑問、
ただ史料を読んでいきますと、両者に直接の関係は無いようです。(もし権現堂堤の保全に絡んで、享和期い幸手領から積極的な動きが認められないとすると、文化5年末に始まった赤堀川拡幅は、渇水期の中利根川流域での舟運円滑化を主目的にしたことなのかもしれない。
今日は享和期から天保期に話が及ぶので、何回かに分けて話を進める。
羽生領水利史
河川水利文書
悪水と赤堀川の拡幅
権現堂堤の保全
今回の主題
1、赤堀川の水利機構について
2、権現堂川の河床変化
3、宝暦2〜4年にかけての羽生領による島川への逆水除門樋の設置について
4、島中川辺領の悪水処理について
5、向川辺領の悪水処理について(これは享和期以降の話となり、次回に続く)
島川の逆流
中利根川赤堀川の拡幅
(堤北側)羽生領排水対策
天明3年(1783)浅間山噴火→河床上昇→たびたびの洪水
天明6年 洪水決壊→手伝い幕府大名御普請 享和2年(1802)破堤
その後復旧
(幸手領)
寛政6年(1794)防災体制強化
・堤防強化
・待機場所
・小屋(防災)
↓
30年破堤していない
A、排水路反対 文政13〜天保4年
B 、排水路を設けない代わりに権現堂川を閉鎖→赤堀川へ 文化6年(1809)拡幅 権現堂川の負担軽減 幸手と島中川辺領の争論 天保7年 排水路は設置しない
C、堤防北側(向川辺、島中川辺)
堤防に排水路を設けなくとも排水路を確保する
天保元年(1830)
権現堂堤一部に樋を埋め込む(四角い木製の排水管
↓
幸手領側は弱体させるので反対
↓
天保14年 江戸防衛の共通認識
この時期の幕府の治水政策と合致
享保以来河川敷を開発し、そこから年貢を徴収しようとする政策、
しかし、18世紀の後半、水害多発により川の洲の除去、河岸の葦刈り、水の流れのスムーズ化へ転換した。
19世紀初めの頃(治水政策の転換)
天保13年、権現堂堤に同年。12月排水管を設置し、
この変更(天保4〜7年の判断を変えた)は、幕府農政から説明は可能であった。幕府領からの年貢増徴収政策へ
↓
数十年に1度の大水害に備えること、
堤防を維持することにより
堤防北側の村々の排水を改善し、農業生産を向上させ、年貢徴収につなげようとした(推測)
弘化3年(1806)堤防破堤、本所、深川浸水、
幸手領、堤防南側の組合村が危惧していたことが現実化
結果、江戸を洪水から守れなかったが、洪水は幕府にとっては許容範囲であった可能性
地域社会の内部の対立
堤の私的利用。
組合内部の対立(強硬派と硬軟派の対立、農・漁業 舟運の阻害要因
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