利根川東遷事業は、徳川幕府の大規模な河川改修プロジェクトでした。以下はその時系列での詳細な説明です:
元禄11年(1698年):幕府は利根川の水害対策と水運の改善を目的として、利根川東遷事業を開始しました。この計画は、江戸の水害を減らすとともに、水運の効率化を図るために利根川の流路を変更することを意図しています。
元禄14年(1701年):利根川東遷事業の具体的な計画が策定され、工事が本格的に開始されました。この時期には、利根川の上流部の調査が行われ、新たな流路の構築計画が立てられました。
宝永元年(1704年):利根川の上流から下流までの全体の計画が完成し、工事が着実に進行しています。河川工学の知識や技術が結集され、堤防の築造や川床の改修が行われました。
享保4年(1719年):利根川の新しい流路が一部完成し、水の流れが徐々に変化しています。これにより、一部の地域で水害の被害が減少し、水運の効率も向上しています。
宝暦3年(1753年):利根川東遷事業は、約55年の歳月を経て完了しました。利根川の新しい流路が全面的に整備され、幕府の目的である水害の軽減や水運の改善が実現されました。
利根川東遷は、戦国時代末期から行われ、近世の前期、さらに後期に大きな進展を見た。
利根川と常陸川は、後北条氏の時代から既につながっていたと言うのが近年の考えになりつつあるが、本格的な整備が進められたのは家康関東入国以降である。
それまでの僻地であった関東を政治の中心地にする国土経営の一環として行われたのである。
その目的としては、埼玉平野の開発、利根川舟運路の整備などが言われているが、日光街道整備が直接的な目的であったとも考えられる。
江戸を政治の中核地とするためには、交通路の整備が重要である。
徳川幕府は、江戸を中心に五街道を整備していたが氾濫原にある街道では、その防御あるいは堤防上を街道にする必要があったのである。
利根川を歴史的に検討するにあたり、
天明3年(1783)年に生じた浅間山の大噴火を頭に入れておく必要がある。
大噴火により利根川流域に大量の土砂が放出され、それが流下して、利根川河床に著しい上昇を見た。
これにより利根川と地域社会の関わり方は一変したと言って良い。
そして近世前期に作られた秩序は、新しい秩序を求めて動いていった。
利根川東遷も新たな一歩を踏み出し、
文化6年(1809)年、天保14年(1843)年赤堀川は拡幅され、明治を迎えたのである。
さらに明治になって近代改修(明治改修)が行われ、赤堀川が利根川河道となって、昭和初頭に竣工した。
利根川上流部の大洪水がほとんど氾濫することなく、赤堀川を通って中・下利根川に流下したのは1935 (昭和10 年)年洪水が最初である。
利根川東遷は赤堀川開削のみから見ても、300年以上かけて行われた大プロジェクトである。
赤堀川の拡幅工事の移り変わり
元和7年(1621) 幅 13m 川妻村文書
寛永12年(1635) 幅 17m 川妻村文書
承応3年(1654) 幅 22m 川妻村文書
元禄年間(1688〜1704) 49m 川妻村文書
文化6年(1809) 幅 109m 下総旧事考
大正6年(1917) 幅 545m 利根川東遷
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