6月に松戸市民、50万人達成!。その松戸市は案外と、河川の街でもあります。北海道似の5キロ四方の地形、大きくは、西側に江戸川がとうとうと流れていますが、中央西側部には坂川と新坂川が流れ、東部には富士川・春木川、南部には国分川があります。房総台地の北端にある松戸の地形は台地3分の2、3分の1が低地です。
このほど、渡辺尚志(わたなべ・たかし)/松戸市立博物館館長は、『川と向き合う江戸時代―江戸川と坂川の治水をめぐって』を刊行されました。
これまでの『小金町と周辺の村々』①・『大谷口村大熊家文書から読み解く』②に続く松戸の江戸時代シリーズになります。
以下、プロローグなどからご案内ー
第1章:江戸時代の村・百姓と水とのかかわりを、お話します。
第2章:江戸川の200キロの治水、水害防止の歴史を取り上げます。
第3章:下谷地域の水害防止として、坂川が拡張されていく20か村の前半の歴史。
第4章:坂川改修の後半、1800年代の掘り継ぎ騒動と合意。 江戸幕府に御普請を嘆願した最初から、56年(1781年~1835年)かかって完成へ。流山の鰭ヶ崎(ひれがさき)から大谷口・古ヶ崎・松戸宿を通り、小山から市川村へと坂川の新水路はできあがる。鰭ヶ崎村名主の渡辺庄左エ門(しょうざえもん)は、多額の負担をしています。
第5章:新水路完成後の課題。自己負担とは別に、水路への用地や潰れ地への補償では出願のうち12村は、幕府から3600両を拝借。その返済は?、工事関連23か村からは人足負担への軽減嘆願。三代にわたって1000両以上も立て替えた庄左エ門への批判。こうしてできた坂川でしたが、水害を防ぐことは、明治42年(1909年)になってからの樋野口(ひのぐち)排水機場が設けられてから、という。
新流路坂川の建設をめぐる近辺の村々の、利害や負担をめぐる顛末、その判断基準など、なかなかの読み物です。具体的なプラン提言や地域指導者の役割、地域社会の利害への対応など、学ぶ報告となります。
坂川の改修をめぐってー川と向き合う江戸時代}渡辺尚志館長講演会 11/11
松戸市立博物館・館長講演会は、渡辺尚志館長により{川と向き合う江戸時代―坂川の改修をめぐって}と題して、11/11(土)、講堂で開催されました。約70人方が、松戸市内にながれる坂川(さかがわの)歴史を学びました。ていねいなレジメには、要点や古文書の現代語訳、カラー地図が記載され、歯切れ良い解説を聞き入ることになりました。以下は、お話の一部をご案内します。
〇松戸市の地形は、下総台地の上部と下部とに分かれ、下部(下谷・したや)には江戸川や坂川が流れている。戦国時代までは、下谷一帯には人は住まず、耕地もない湿地帯であったが、17世紀(江戸時代前期)になると新たな村(新田・しんでん)が成立した。九郎左衛門(くろうざえもん)新田・七右衛門(しちえもん)新田の例。集落や耕地ができることで、水害が生まれることになる。 〇水害に悩まされ、"三年に一度、米が穫れればよい"と言われるなか、下谷の百姓たちは、17世紀末に開墾が一段落すると、坂川の改修に取り組むことになる。1760年(宝暦10)には、川底の土砂のしゅんせつ、流路の変更、土手の建設などを幕府に願い出る。これは、坂川沿岸の幕府領10か村が幕府に主な負担と百姓自らの負担による案だった。しかし、台地上や台地縁の台方(だいかた)の村々は反対であった。堤防を築いても水害が防げるのか?、人足を出す負担の是非の問題があった。
〇1781年(享和元年)、鰭ケ崎村名主の渡辺庄左衛門らによって、12カ村が初めて坂川の流路を南方(松戸宿・小山・矢切方面などの下郷へ)へ延長することを出願。以降、約60年間、坂川の流路延長は説得と実現へ尽力され、堀り継ぎされていくことになる。1834年(天保5年)、下郷村々+坂川組合村々+鰭ケ崎村との合意へ。(ー講演の主たる部分は、おりおりの願書、反対の意見、事件、その成果や課題が述べられていきました。)1836年(天保7)、ルートの延長が実現し、坂川の流路はほぼ現在の柳原水閘までの姿になる。こうして、明治以降の坂川周辺の農業発展の基礎が築かれたが、水害とのたたかいは続く。
〇江戸時代後半、坂川の改修が実現できた要因をあげる。村々を結集してネバリ強く幕府に働きかけたこと、具体的な改修プランを提案していたこと、地域有力者の政治的な交渉力・私財提供・工事請負があげられる。
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