blogskawano.net: 2023年1月アーカイブ
2023-1-21 利根川文化研究会例会
日時 2023 年 1 月 21 日(土) 16:00
形式 Zoom によるオンライン例会
報告 原淳二氏「文化6年・赤堀川拡幅の意味」
情報交換会
コロナの影響を受けて実施できていない巡検について
・千葉県銚子市(川名氏案内、2023
年 春 o r 秋? ?)、
・黒川氏 案内
の 用水関係
・埼玉県ふじみ野市(酒井氏案内)
(報告資料の概要)
赤堀川という名称の河川は関東地方にもいくつかあるが、ここで対象とするのは元和七年(1621)に開削・整備された人工河川の赤堀川である。
赤堀川は、寛永二年(1625)にも拡幅され、渡良瀬川をあわせた 上利根川の水流を権現堂川とともに分かち、「常陸川」(中・下利根川)と関宿城下の逆川へ流下させる役割を担った。
逆川の水流は、寛永一七年(1640)に江戸川が開削されると、権現堂川からのを合わせて江戸川へ流下した。
また、逆川は権現堂川の満水時の水流を一部逆流させ、中利根川へ流すこともあった。しかし、この現象は中利根川の河床が高くなると起きにくくなった)。
その理由はともかくも、幕府はこの複雑な水理機構を構築したわけだが、その後の河川状況の変化により、様々な問題を内包することになった。
幕府は赤堀川を承応三年(1654)にも拡幅するが、その後、川幅は自然に広がるに任せ、一五〇余年を経た文化六年(1809)になって新たな改修を迫られた。
これはよく知られた出来事であるが、関連史料が乏しいこともあり、その目的や意義について意見が分かれている。
これは、地域的利害が相反する中・下利根川や江戸川への分水量に関わることで、その評価が難しいからである。(はじめにより)
以下、(略)
1、文化六年(1809)の拡幅に関する言説や近年の研究
2、 拡幅へ至る大まかな経緯
3 、村の出した請書
4 、文化六年(1809)赤堀川の拡幅以前と以後の赤堀川・権現堂川・逆川・江戸川への分水関係を確認する必要がある
(まとめ)
幕府は、外圧が増す中で都市騒擾の発生を恐れ、江戸や近辺での水害を警戒する。
また、
江戸の物流路としての内川廻しを維持する必要も一段と高まってきた。
それが文化 6年(1809) の赤堀川拡幅へと繋がるが、
中・下利根川流域での河川改修を伴わないそれは、十分な成果をおさめることが出来なかった。