江戸時代初期の河川改修工事とその意義(kubota 技報)
江戸時代直前から初期にかけて利根川に加えられた河川改修工事は、総称して利根川東遷事業と呼ばれている
そしてこの東遷事業は、従来、徳川家康が江戸入府(1590年)以来、当初から利根川の流域を変えて常陸川に導き、銚子で鹿島灘に落とす構想を描いたと言われ、文禄3年(1594年)の会の川締切をその端緒とし、60年の歳月をかけて承応3年(1654年)利根川水系と常陸川水系を結ぶ赤堀川の開削をもってその構想を達成した、とされる。
その目的は次の4つ
① 江戸を利根川による水害から守る
② 埼玉平野から利根川を遠ざけて、その開発を進める
③ 舟運を開いて関東平野はもちろん東北と関東との経済交流をはかる
④ 東北の雄藩伊達に対する防備として、利根川をして江戸城の一大外壕とする
そして、この東遷事業によって、常陸川水系下流、すなわち現在の刀根川下流の水害が激化した。
これら長期構想についてよって進められた東遷事業を吟味する。
<会の川締切り> 文禄3年 (1594年)
<小名木川の開削> 慶長年代(1596年~1614年)
<名洗掘割の起工> 慶長年代(1596年~1614年)
<新川通と赤堀川の開削> 元和7年(1621年)~寛永年代(1624年~1643年)
<浅間川の高柳地点での締切り>
<鬼怒川・小貝川の分離ー大木丘陵の開削ー>寛永6年(1629年)
<江戸川上流部の開削>ー寛永18年(1641年)-
<利根川東遷事業の再評価>
いままでに触れたもの以外に,
寛永年代初期の常陸川末流の改修,
寛永6年の荒川の瀬替,
佐伯渠の開削などあるが,
これらの河川改修工事および農業用水の開発に関する直接の指導は,関東郡代伊奈備前守忠次以下三代の伊奈一族が行っており,備前堀・備前提・伊奈村など一族にちなんだ名称が残されている.この一族の墓は鴻巣町勝願寺に安置されている.
従来,この60年間の諸工事で,利根川の幹川が赤堀川から常陸川に移り,利根川東遷事業が完成したとするのが大方の意見であった.
たとえば,栗原良輔は,「承応3年に赤堀川の水深を増加させたので,始めて洪水の多量が常陸川筋に排疏出来るようになった.
故に利根川の流路は,文禄三年以来次第次第に東方へ押し付けられ,遂に其の流路が鬼怒川の流路を奪って東流し,曽ては江戸湾を吐口としたものが一転,鹿島灘に注ぐと言ふ,一大変遷を示したものである」と述べている .
これに対し,はじめて異論を唱えたのは小出博であり,赤堀川は,利根川の洪水を呑みこむにはあまりに川幅が狭く緩勾配であることを指摘している.
小出のこの異論は,従来の神話化されていた利根川東遷の評価に関し,基本的な再検討をせまるものであり,きわめて意義深い.
この小出の見解をさらに一歩すすめるならば,
幕府には,洪水防禦の意味で利根川を東遷させる構想はなかったと考えられる.その論拠は,江戸川開削や鬼怒川の大木丘陵開削にみられる
大土工を敢行しておきながら,赤堀川を10間幅のままで拡幅しようとしなかったことにある.
≪宝暦治水調査報告≫
この赤堀川に対する幕府の見解が端的に表われているのは,宝暦年代(1751~1763年)の宝暦治水調査報告である.この調査は,利根川と会の川自然堤防に囲まれている羽生領の住民が,その唯一の排水河川である島川への権現堂川からの逆流に苦しみ,水害軽減を嘆願して行われたものである.
その調査報告によれば,赤堀川を拡幅した場合は上利根川が渇水し,権現堂川の疏通をよくした場合,中・下利根川(旧常陸川)が渇水し,どちらも舟運を害するため,現状を維持する以外に方法がないと結論されている.
この調査報告から,逆に赤堀川開削の目的を類推すれば,
平水の涸渇している常陸川に吃水の深い大型の船を舟航させ,かつ,上利根川や江戸川の舟運を害さない程度に,利根川の水を引き入れることにあったと言える.
すなわち,利根川東遷事業の目的を舟運に限って見た場合,
元和7年の新川通・赤堀川の開削が第一段階,
寛永6年の鬼怒川の付替が第2段階,
寛永年代の浅間川締切りが第3段階,
そして承応3年の赤堀川の増掘がその完成段階と位置づけられる.