霞ヶ浦における河岸の成立
・河岸成立の時期は場所によってまちまち
・中世から霞ヶ浦沿岸には「津」が発展し栄えた
・元禄3年に行われた河岸吟味では霞ヶ浦(西浦)で6つ、北浦で9つの河岸を幕府が把握
・明和・安永期の河岸吟味では霞ヶ浦(西浦)で5つ、北浦で28つの河岸が幕府に把握され、運上金が課せられる
・木下河岸は両方の河岸吟味で対象になる
霞ヶ浦を介して運ばれたもの
・年貢米(俵物)のほか、日常的に必要な物資が運ばれたのか
・肥料(金肥)や塩、樽を使う醤油や酒、材木・薪など、大量輸送の必要な荷物や重い荷物は船で輸送
・日常的に使うかくちの品も複数に上げされた(土佐節、土佐半紙、伊予砥)
霞ヶ浦水運の様相
・江戸時代後期には、本数・束数ともに10万本以上の薪が江戸の問屋へ出荷/船賃は年間約150両
・輸送を担っていたのは、石田河岸の持ち船以外にも、各河岸を拠点とする船頭(兼船持=小船持)
・問屋に属さない自由な小船持が河岸問屋の経営を脅かしたと理解されていた、しかし、各地の河岸からやって来る小船持こそ霞ヶ浦水運の担い手/問屋とは協調と相克/小船持は石田河岸への物資を運び、その後河岸問屋にの差配を受けて江戸へ薪を輸送した
霞ヶ浦水運の流通秩序
・歌詞はお互いの利益を守り、物資の流通を円滑に行うため、たびたび規則(流通秩序)を設けた
規則の主な内容
・運賃の規定
・船の延着や江戸での長期停泊の制限、
・過積載の禁止、
・送り状に記された荷物(貸し問屋が把握している荷物)以外の積載禁止、
・難船時の対応方法や積荷の損害補償、
・定期的な会合の開催
→仲間内が「損」をしないために設定するものが、流通秩序/船賃の設定や積荷の損傷など、水運特有の問題をクリアするために設定された/仲間内で独自の事を作り出すと言う自律性
右→霞ヶ浦水軍(+利根川中・下流域)において、難船が大きなリスク
まとめ
・霞ヶ浦の水運は古くから利用されてきたが、河岸が把握されたのは元禄3年(1690)/霞ヶ浦(西浦)で6つ、北浦で9つの 河岸を幕府が把握
・明和・安永期:霞ヶ浦(西浦)で5つ、北浦で28つの河岸に、幕府が運上金を課す。
→河岸問屋(ないし河岸)に株が与えられる。
・水運は年貢米の輸送が中心で、その後、商品荷物も多数運ばれた。
→霞ヶ浦を介して、肥料(金肥)がもたらされ、農作物の栽培が活性化/薪や材木、特産である醤油などは霞ヶ浦を介して出荷
・薪の場合、江戸時代後期には例年本数・束数ともに10万以上が江戸へ出荷
・石田河岸の薪輸送を担っていたのは、他の地域からやってくる船頭(小舟持)
→河岸問屋と協調・相克/各地からの物資をもたらし、石田河岸の薪を帰り荷として運んでいく。
・河岸は互いの利益を守るために、仲間を結成/規則を設定=流通秩序
・新たな稼ぎを禁じたり、船賃を設定したり、難船の賠償方法を設定したりすることで、水運特有の課題をクリアすることを目指した。
→仲間内で独自に流通秩序を設定する自律性を持ち合わせる。
・江戸時代以降、水運を巡る体制は大きく変化する。
株の無効化/明治政府指導企業による支配(陸運元会社、内国通運会社)/鉄道の登場。
→霞ヶ浦水運は、物資を運ぶだけではない転換をしていく。